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千徳村

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目次

中世時代は繁華街だった

千徳村は東を宮古町に、西を茂市村に、北は山口村に接し、南を閉伊川を隔て花輪村と接している。面積は1555方里、戸数218、人口は男832、女817、枝村に根市、花原市がある。(大正11年)
千徳村はその昔、中村と呼ばれていたが中世の頃大干ばつに遭い、この地を統治していた豪族が水脈を探し当て、その後泉徳、あるいは仙徳という地名ととなったと伝えられる。この頃、宮古はまだ未開の地あり当時絶大な勢力を誇っていた千徳氏により郡内一の繁華街であった。しかし、戦国末期に南部氏の命により桜庭氏が千徳氏を攻め滅ぼし、閉伊を統一してからは桜庭氏の所領になり明治維新に至る。また、桜庭氏に滅ぼされた千徳氏の残党は岩船に逃れたと伝えられている。

暴れ川に泣かされる千徳

閉伊川の下流、宮古の西に位置し、閉伊川の流れに沿って拓けた村が千徳村だ。現在の千徳地区は限定されるが、江戸期には現在の宮町一・二丁目あたりまでを千徳村としていた。また、古文書などでは「仙徳」とも表記される。江戸時代の元禄期に記された郡郷帳によると田圃191石余、畑が107石余、このうち畑の10石は枝村である近内村分とある。享保10年(1718)の検地によれば合計で404石余とある。しかし耕地のほとんどは堤防のない閉伊川に面していたため洪水などの自然災害によって幾度となく流失し、享和7年、9年(1722・1724)の洪水では一挙に229石余を失ったという。翌年の享保10年(1725)、元文3年(1738)、寛保元年(1741)、安永5年(1776)など、毎年数え切れないほどの水害によって耕地を失ない、被災と復興を繰り返してきた。享和3年(1803)の仮名付帳によると家数115戸、うち千徳町と呼ばれた伝馬駅(伝馬の駅・馬の駅)本村75戸、枝村の堀合に2戸、長根に7戸、岩船31戸であった。

閉伊川の鮭漁

千徳を流れる閉伊川は千徳川と呼ばれ、古くから鮭留漁が行われてきた。慶長17年(1612)10月8日の南部利直書状(刈屋文書)には「壱瀬御役鮭、六本、大行院」とあり、閉伊川で捕れた鮭を盛岡藩へ献上している。鮭留漁が行われた場所は特定できないが、現在の閉伊川に設置されている留場から、閉伊川河川公園前堰堤附近であったと予測される。また、延宝7年(1679)には二番鮭、元禄4年には一番鮭を献上の記録が残されている(南部藩雑書)。しかし度重なる洪水のため川筋や瀬が荒らされ、元文13年(1801)、享和3年(1803)には不漁となりその旨を藩へ報告し、同時に運上金の上納もおぼつかなくなり、免除願いを提出している。

伝馬駅として賑わった千徳町

千徳城跡の南側、千徳八幡神社の麓に拓けた千徳町は江戸初期から牛馬を扱う伝馬駅であり、町中央に検断屋敷があり、続いて宿屋、伝馬屋敷があり、酒屋、質屋、麹屋などが軒を並べる繁華街であった。道幅も広く整った整備がされており、現在もその面影を見ることができる。また、上鼻地区には閉伊川を渡る渡船があり旅人はこれを使い津軽石方面へ向かった。千徳町の背後には八幡神社があり、天正4年(1576)に千徳城舘主、次郎善勝なる人物が再建したものと伝えるが定かではない。また、社殿には江戸時代にも地頭であり、実質、千徳を支配していた盛岡藩家老・桜庭氏により社殿の修復が行われたとしている。

一千徳が旗印

千徳と津軽石のライバル関係を象徴する例として、千徳には次のような歌がある。

  • 正義を進め 邪を排し 青年の意気 朗らかに 一千徳の 名を挙げよ
  • 心を磨き 体を練り 事ある時は 奮い立ち 一千徳の 名を挙げよ

これは海軍大佐、高橋寿太郎が大正12年頃作った千徳村民歌的なものだ。勇壮な行進曲風は生徒から青年男女まで盛んに歌われ、村民の意気を高めていた。千徳人の昔からの一千徳魂を物語るもので、千徳では「一千徳 二津軽石 三蟇目 四小山田 五田老」としている。
ところが、この順番に入らない町村は面白く無いからこれを認めず、自画自賛で三田老とか、四(ス)どこそれ、五どこどこと入れて騒ぎ立てた。そのため三以下の地区名は異説が多い。しかし、千徳と津軽石だけは昔から上位の順番は変わらず、各地区とも一目置いていたようだ。また、異説ではこの順序はスポーツなどの順位ではなく、ケチの順序、人の悪さ、性格のキツさの順位とも言われる。とかく上位にランクされた村々は昔から団結力が強かったようだ。

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