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千徳氏

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閉伊の中世史に突如現れる一戸千徳氏

中世の閉伊地方において「閉伊48舘の侍頭」として君臨した一戸千徳氏は、閉伊の中世史の中に突如現れる謎の豪族だ。一戸千徳氏の発生は各古文書、資料の解釈によって諸説語られるが、初代一戸・千徳氏である一戸政英(一戸信濃)がいかなる理由で千徳城に入り閉伊を統治するに至ったかは解明されていない。 この疑問に対し『千徳舘興廃実記』では一戸千徳氏以前の最初の千徳氏とは中央から流れてきた土岐氏を祖にした豪族であり、文亀元年(1501)閉伊の諸舘を侵害し続ける土岐・千徳氏を南部の命により桜庭氏を大将とする閉伊の連合軍が滅ぼしたとしている。滅ぼされた土岐千徳氏の後釜として千徳城を含め閉伊地方を統治するため送り込まれたのが一戸氏であり土岐氏同様、千徳氏を名乗り圧倒的な武力をもって閉伊地方を統治したと考えられ、三代目の一戸政吉の頃は、千徳城と知行していた津軽・浅瀬石城の城主も兼任したとしている。しかしながら史実において南部の家臣である桜庭氏が千徳城を攻め落としたのは、九戸政実(まさざね)の乱を経て、豊臣秀吉奥州仕置、朝鮮出兵の後に、発布された「諸城破却令」によってであり、それより以前に土岐千徳氏を攻めたというのは合点がいかない。
 これに対し『古城物語』は千徳氏とは対岸の田鎖から分かれた同族とし、閉伊川を挟んで千徳氏を中心とした「河北閉伊氏(便宜上)」田鎖氏を中心とした「河南閉伊氏(便宜上)」とし、千徳氏が津軽浅瀬石城・城主を兼任していたことについては、過去に千徳氏の先祖が牧野開発で長い時間をかけて津軽地方まで北上、いつの代かに名前を「一戸」と変えて千徳へ戻ったのではないか?としている。
 千徳氏による払川舘落城は三冊の資料とも元になった古文書が同一だったらしく、似たような結末になっており、一連の事件の首謀者として「千徳次郎善勝」をあげ、千徳次郎善勝の妹が鬼九郎行重の妻であったとする場合もある。そのため千徳次郎善勝は各時代に複数存在しその年代的ズレは約60年にもなる。これは江戸時代に書かれた文書の時点で千徳氏を代表する人物として千徳次郎善勝の名を多用した結果だろう。『千徳舘興廃実記』では千徳次郎善勝を千徳城を築いた初代土岐氏の5代目とし、『東奥古伝』では鬼九郎の妻の父としている。また『古城物語』では秀吉の奥州仕置きに連動した南部信直の「諸城破却令」によって桜庭軍に囲まれた千徳城で最期を迎えた一戸孫三郎の一子ではないかとしており、その素性は今も不明のままだ。

初代千徳氏一戸政英が三人の男子に授けた領地

千徳舘興廃実記』では千徳の地を新たに統治することになった一戸政英には3人の男子がおり、長男・政明(千徳大和)に千徳を、弟・重連(しげつら・弥義沢左馬之助)に八木沢を、行政(ゆきまさ・津軽石十郎)に津軽石、豊間根を知行地として預けたとしている。このことから一戸氏が手中にした領地(旧千徳氏(土岐氏?)の勢力)は千徳、八木沢、磯鶏、重茂、津軽石・豊間根にまで及んでいたとも考えられる。

歴史から消えた千徳氏

天正11年8月になると、一戸政氏は三戸公の命により父・政吉の知行地を受け継ぐため千徳から津軽・浅瀬石城に入る。その後千徳城は千徳氏の家臣が守ることになる。一戸政氏はその後、津軽の大浦右京の家臣の娘と婚姻したことから南部信直の反感をかい、同時に大浦右京からも疑われ天正18年(1590)謎の自害をしている。また、政氏の子、政勝は津軽・浪岡城で大浦右京らの策略で敵城内に呼び込まれ誘殺されている。
こうして一戸千徳氏の直系は滅び、千徳城に留守居として配属されていた一戸孫三郎は秀吉の唐入り(朝鮮出兵)に従軍、その間に奥州仕置で秀吉の御朱印を受けた南部信直の「諸城破却令」により城主のいない千徳城は破却される。後、一戸孫三郎と共に唐入り従軍した田鎖氏は故郷・閉伊に戻ったが、千徳・城主一戸孫三郎は消息不明のまま戻らず千徳氏の名は閉伊の歴史から完全に消えてゆく。

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