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鍬ヶ崎町

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江戸末期には遊郭があった生粋の港町

鍬ヶ崎の地名の由来は舘ヶ崎の東端にある岩壁が鍬の形をしているからと伝えられる。当初この地は鎌倉時代初期、根城に築城し当地を支配したという閉伊頼基の分家にあたる閉伊光親(みつちか)の所領だったとされるが、戦国時代末期に南部氏が閉伊を統一してからは南部氏の所領になり宮古代官所の支配下となったまま明治維新を迎えた。
鍬ヶ崎町は当初、現在の崎山地区である早稲栃、大沢、大付、日出島、古里を含めて鍬ヶ崎町としていたが、安永9年(1780)に二つの村になり、崎山地区にあたる各集落を崎(先とも表記する)鍬ヶ崎、現在の鍬ヶ崎集落を浦鍬ヶ崎とした。
安政年間(1854~1860)に書かれたという「三閉伊日記」(安政元年南部藩某氏)によると鍬ヶ崎一帯はすでに町並みが形成され、「町屋三百軒にして、遊女百六十人、外洋往来の船舶、必ず寄港するを以て、南部藩領内第一の繁華の地」と記録されている。この頃すでに鍬ヶ崎上町には、遊郭などが存在したものと考えられ、これらは明治の三陸定期汽船の就航により大正期に最盛期を迎える。
東側のほとんどを海に囲まれた鍬ヶ崎は明治29年(1896)の三陸大津波で死者128人を出す大惨事に遭った。その後は大正5年(1916)から大掛かりな埋立工事を行い現在の鍬ヶ崎の姿になった。面積は199方里、戸数924、人口は男2670、女2776(大正11年)

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