Miyape ban 01.jpg

大正七年都桑の企業

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索
  • 宮古電気会社

菊池和七氏、菊池長右衛門氏兄弟相論じて電気事業の将来あるを以てし、有志と共に企てられたるは宮古電気株式会社なり…。と紹介されている宮古電気株式会社は明治44年(1911)に当初閉伊川の水力を利用して発電しようと計画されたが、膨大な経費がかかるため火力発電として明治45年(1912)資本金5万円をもって営業を開始した。のち大正6年(1917)資本金を15万円に増資して、山口村田代の田代川の水力を利用し水力発電を行った。代表取締役社長・菊池長右衛門、取締役・菊池長七、中沢徳次郎、山田庄助、中島新太郎、監査役に駒井庄七、佐藤与兵衛、岡田与五兵衛、支配人・細越伝七で、当時の宮古における経済人の名が連なっていた。

  • 株式会社宮古銀行

宮古銀行は熊谷平次郎、八重樫金十郎ほか十数名の発起人により資本金50万円で大正初期に設立された銀行で、当時の下閉伊郡役所前の一画に店舗があった(現在の第一生命宮古支店付近)、当時、下閉伊郡下において唯一の株式銀行で、岩泉村、山田町に支店をもっていた。大正7年(1918)鍬ヶ崎町、盛岡市鉈屋町に支店を設置している。取締役頭取・熊谷平次郎、取締役・八重樫金十郎、山崎善四郎、菊池儀兵衛、斉藤徳治郎、監査役・斉藤安次郎、中沢徳兵衛、八重樫市右衛門という代表メンバーだった。

  • 株式会社九十銀行宮古支店

旧南部藩士、南部剛確(つよかた)ら数名を筆頭に金録公債を資本として、公債を抵当として明治11年(1878)国立銀行として開業したが、同29年営業満期国立銀行処分法が公布され、翌年私立株式会社九十銀行と改称し、同33年には宮古町に支店を開設(現・岩手銀行築地支店付近)、大正7年(1918)には鍬ヶ崎町に出張所を置いた。資本金60万円、頭取は佐々木卯太郎。

菊地長右衛門が盛岡の実業家有志らとともに計画した、現在の山田線の前身でもある「盛宮軽鉄(せいぐうけいてつ)」は明治44年(1911)、宮古-盛岡を陸路で結ぶ「盛宮自動車株式会社」として誕生しその先進性を多くの人が認めた。同社は資本金5万円でイタリー製フィアット4台を買い入れ、威風堂々盛岡-宮古間を走行したが、閉伊街道の道の悪さは折り紙付きで、人身事故等をきっかけに自動車2台を西部管理局に貸与し経営を一新、大正7年(1918)には第7回決算報告で配当を出した。盛宮自動車株式会社はその後紆余曲折しながら昭和9年(1934)の山田線・宮古-盛岡間開通まで営業を続け多くの人と文化を運んだ。

表示
個人用ツール