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黒森神楽

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目次

江戸初期から巡行記録がある山伏神楽

黒森神楽は黒森山を行場とする黒森神社の修験山伏集団によって演じられ伝承してきた神楽だ。その経緯は江戸初期の貞享5年(1688)の南部藩内本山派・羽黒派の派閥抗争、江戸中期の宝暦8年(1758)「黒森権現廻村騒動」など、かなり古い時代から広域の神楽巡行をしていたことがわかる。また、古い権現様の銘の中には室町時代の文明17年(1485)のもの、さらに遡って南北朝時代初期と推定されるものもある。これらはどれも幕を付けるための穴があり、歯も摩耗していることから権現様を使った門付けなどの儀礼が行われていたと考えられる。
黒森神楽は山伏神楽でありながら他の山伏の活動範囲である霞場(かすみば)でも演じられ、藩政時代を経て修験廃止となった維新後、そして現在まで伝統を守り巡行神楽として存続しているのである。
巡行は毎年1月から3月まで黒森神社を中心に野田方面へ向かう「北廻り」、大槌方面へ向かう「南廻り」があり、この時期になると村々に豊作と大漁を約束する神々の神楽囃子が響く。

黒森山と黒森神社

中世以前から崇められた霊山、黒森山は標高330・5メートル。宮古市街地の北側に位置しその南側中腹に黒森神社がある。黒森山はその名の示す通りかつては山一面が巨木に覆われた鬱蒼とした山だったという。山頂には杉の巨木があり宮古湾を航行する船舶の目印にもなっていた。平成9年の黒森山麓の山口館発掘調査で奈良時代(8世紀)のものとされる密教法具が出土し、黒森山域が古代からの地域信仰の拠点であったことが窺われる。また、中世の頃には黒森山麓に黒森神社に関係する安泰寺(天台宗)、江戸期には赤龍寺(真言宗)があり黒森神社の祭礼で護摩祈祷を行っていたと言われる。そのため当時黒森神社は「黒森観音」「黒森大権現」と呼ばれており、黒森全域が神仏習合の霊山であったことがわかる。黒森神社の創建は不明だが、棟札に建久元年(1190)のものがあったという古文書記録がある。実際には応安3年(1370)をはじめ応永11年、天文10年、慶長5年、寛永17年など中世から江戸にかけて17枚の棟札が現存している。また建武元年(1334)の年号で黒森という銘のある鉄鉢、安泰寺に奉納されたという梵鐘の拓本には貞治4年(1365)の年号があり、南北朝から室町時代にはすでに宮古下閉伊において崇められていたと考えられる(詳しくは黒森神社の項を参照)

江戸初期から続く巡行神楽

正月3日。毎年この日は黒森神楽の神社舞立ちの日だ。この日黒森神社の氏子をはじめ関係者、神楽衆たちは神社に詣でる。神事では宮司による祝詞の後、社殿前に出された権現様に黒森の神霊を降ろす権現舞が舞われる。舞い手は手に扇子と錫杖を持ってショシャ舞を舞いながら最後に権現様を手に権現舞を舞う。この日は山口公民館で神楽披露があり多くの観客が集まる。このように南廻り、北廻りにかかわらず正月の舞い始め儀礼になったのは近年であり、ひと昔前は、神社舞立ちの後、氏子総代の墓を廻る「墓獅子」などの儀礼をして夜に神楽を披露した。また、江戸時代の記録によると黒森神楽の巡行は「秋仕舞い」などで農作業が一段落ついた10月末頃から田植えをする4月末まで行われており、毎年正月を堺に決まった日程で巡行するようになったのは近年になってからのことだという。

門付けとシットギ獅子

巡行で神楽一行が宿に舞い込む儀礼を総称して「舞込み」と言い、翌朝神楽一行がその宿を出て行くことを「舞立ち」と言う。舞い込みでは権現舞いのみの舞込みと宿の庭前でシットギ獅子を舞う「シットギ獅子舞込み」がある。シットギとは白米を臼で搗いて作る儀礼用の供え物であり、据え付けられた臼の周りで杵や剣を振り回す「七つ物」が舞われる。搗きあがったシットギは丸められ臼に残った粉を道化のゴンスケや孕みおかめが「オマブリ(お守り・縁起物)」と称して見物人の鼻筋につけてまわる。この仕草がユーモラスで見物人たちの笑いを誘う。神楽衆は権現様を手にする前にショシャ舞を舞い、権現舞を舞って最後に権現様が松明を踏み消して火伏せとし、神楽一行が宿に入る。権現様は床の間に安置され、さきほど庭先で搗いたシットギを口に噛ませておく。
前日に舞い込みその宿で一通りの神楽演目を披露する夜神楽を経て一泊、あるいは二泊した神楽衆一行は、翌朝には権現様を携えて舞い立つ。この時に宿主から希望されれば、仏壇から位牌を出して権現様で先祖供養する「神楽念仏」などをやることもある。また、宿の台所や囲炉裏など火を使う場所では火伏せ、家の人の頭や肩を権現様に噛ませる「身固め」などの儀礼を行うこともある。

黒森の権現様は雌雄一対

一般に獅子舞などで使われる頭部は「獅子頭」と呼ばれるが、黒森神楽ではこれを「権現様」と呼ぶ。神楽巡業に際して、神降ろしの儀礼を行い黒森の神霊が権現様に憑依して「黒森権現」となる。権現とは仏や菩薩が化身して神になって現れるという修験の「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」という思想だという。そのため権現様の意匠は人がもつ山に対する畏怖と山に棲む全ての動物を組み合わせたもので、結果的に獅子頭のような形状になっている。
黒森神社の権現様は二頭で一組とされ、早池峰神楽などの他の神楽では権現様一頭で一組としており、二頭の権現様を使う黒森神楽は極めて異色と言える。二頭の権現様には雌雄があり眉間や鼻筋などで見分けるのだという。神楽宿の床の間に権現様が安置されると最も生活に密着した舞に使う「山の神」と「恵比寿」の面が権現様に載せられるが、この時女神である山の神面が載る方が雌の権現様で、もう一方の恵比寿面が載る方が雄の権現様だ。

黒森神楽演目

黒森神楽では昼は巡行先の地区を廻って権現様とよばれる獅子頭を使っての、門付けや権現舞が中心だが、夜は神楽宿となった家で夜神楽を演ずる。近年は神楽宿とされる一般の家ではなく地区の公民館や地区センターが会場となり、清祓榊葉松迎山の神舞恵比寿舞岩戸開三番叟篠田森などの役舞や狂言、仕組物など各種の演目が演じられる。

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