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浦野大蔵

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  • うらのだいぞう【分類・宗教】
  • 江戸~大正:天保12年~大正5年(1841~1916)

日本最初のロシア正教会三使徒の一人

宣教師ニコライのロシア正教の布教活動における日本人としての最初の信徒が、沢辺琢磨、酒井篤礼(とくれい)、浦野大蔵の3人であった。まだキリスト教禁令下の日本で1868年5月、ニコライから洗礼を受けた。そのうちの一人浦野大蔵は、イヤコフ浦野として3人とともに布教活動のためニコライによって各地に送り込まれ、やがて宮古の金浜村に居住した。
浦野大蔵は、天保12年(1841)に能登の狼煙村で、医師・浦野柳齊の次男として生まれ、20歳前後に開港場の函館へ移住した。その時、沢辺や酒井とともに正教に入信した。洗礼を受けてまもなく、3人はひそかに布教する目的で函館から東北へ移った。しかし、宮古に潜入した彼だけは、やがて活動から離れ、医院を開き、医療活動に専念することになった。布教で立ち寄った際、金浜に宿を取り、そこで知り合った女性と結婚したことが縁で宮古に移り住んだのだ。その浦野にニコライは明治14年と26年に宮古で会っていた。 明治26年の東北巡回日記の6月2日に次のように記されている。
「宮古へあと一里半の金浜村(40戸)でイヤコフ浦野の家に立ち寄った。浦野は村へ入るずっと前まで出迎えに来てくれた。浦野は、時間の順でいえば日本のキリスト教の3番目の信者である。彼は沢辺、故酒井と一緒に洗礼を受けた。…(中略)…しかし、浦野の宗教的感情を呼び戻そうと努力したが、全く関心を示さない。彼の家には7人の子供と妻がいる。彼自身は今53歳。家は自分のもので、医業によって暮らしているという。壁には聖使徒イヤコフのすばらしいイコンが、まるでただの絵のようにかかっている。これはA・P・トルストイ伯爵の寄贈して下さったイコンで、私が1871年にロシアから持ってきたものだ」とある。
その時の彼は改宗せざる得ない事情があったのか、話をそらし多くを語ることなく、山田へ向かうニコライを浜でいつまでも見送ったという。
時期は不明だが、浦野は曹洞宗に改宗し、大正5年3月18日に病没して、地元の江山寺に葬られた。戒名は「珠洲院英徳居士」とあることから、自分の故郷が「珠洲」であることを最後まで忘れていなかったと窺える。
浦野が持っていたイコンとは、キリスト、聖人などを描いた礼拝用の絵のこと。木製の額に入れられ、板に青、金、白などの法衣をまとった聖人が色鮮やかに描かれている。このイコンは100年以上も前にロシアで作られたもので、浦野とニコライを結ぶ唯一の絆として、今なお代々、金浜の浦野家に残されている。

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