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佐々木半十郎

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  • ささきはんじゅうろう【分類・医師】

明治の鍬ヶ崎で開業医を営む佐々木半十郎と佐々木医院

佐々木半十郎と半十郎が院長を務めた「佐々木医院」に関しては、明治中期から大正末期にかけて鍬ヶ崎上町にそんな病院があったという事実が伝えられているだけで、その病院が上町のどの場所にどのような規模で存在したのかはまったくわからない。ただ、半十郎が明治24年に仙台の第二高等中学校を卒業し、翌年開業するための申請書を提出、その後上町に佐々木医院を開業したのは当時の郵便物などからみてもまぎれもない事実だ。
半十郎は佐々木医院開院後、上町のとある料理屋の一人娘「サヨ」を娶り最終的には5人の子宝に恵まれている。また、半十郎の親が上町の金比羅神社境内下にあった料理屋を経営していたということもあり、この婚姻には親同士の約束があったのかも知れない。
鍬ヶ崎尋常小学校時代から成績優秀で級長を任命されるほどの半十郎は後に、狭き門である仙台第二高等中学校医学部に入学する秀才であり、妻となったサヨも宮古女学校を出た才女だった。この二人の間に長男「庸夫(つねお)」が生まれた。庸夫の生年月日や詳細は限られた文書からでは判らないが、庸夫は父が卒業した仙台第二高等中学校医学部が転身した仙台医学専門学校に入学、卒業後は盛岡の日本赤十字岩手支部病院に勤務後、おそらく半十郎が病気のため医師として活動できななくなった大正9年頃には父の跡を継いで佐々木医院の経営に携わっている。
大正11年の日本赤十字社からの文書に父半十郎の死を悼み、佐々木庸夫ら遺族へ対し弔辞が寄せられており、また、大正9年には父の跡を継ぐため鍬ヶ崎に戻っていた佐々木庸夫を医師として認める証書が届いている。父以上の最新医学を学んできてきた佐々木庸夫は大正13年に開かれた第5回下閉伊医師会で学術発表を行っている。しかし佐々木庸夫は父を追うかのように若くして病に倒れ他界、医師を失った佐々木医院は元号が昭和となる頃には閉院した。

佐々木半十郎と仙台第二高等中学校医学部

佐々木半十郎は鍬ヶ崎尋常高等小学校卒業後、仙台の第二高等中学校医学部に入学している。この学校は明治19年に発布された「学校令」の一環で「中学校令」が出され、各府県に「尋常中学校」、全国主要都市に「高等中学校」が設置されることになり、明治20年に東北では仙台に設置されたものだ。
高等中学校には本科をはじめ、医学、工学、法学の専門学部があり、第二高等中学校には専門学部として医学部が設置されていた。なお明治22年には仙台市片平町の旧陸軍省用地に校舎が落成している。 卒業後ほとんどが医師となる医学部は、帝国大学進学を志す本部(大学予科)とは異なっており、幾多の軋轢から明治34年医学部は独立「仙台医学専門学校」と名称を変更する。後、明治45年同医学専門学校は「東北帝国大学医学専門部」さらに将来の「東北帝国大学医科大学」へと変貌してゆくことになる。
佐々木半十郎の第二高等中学校の卒業証書には明治24年12月16日の日付があることから、半十郎が同校の第一期生あるいは二期生で卒業したのではないかと考えられる。いずれにせよ、幕末明治生まれの半十郎が当時の東北においての医学学校の最高峰であった仙台の第二高等中学校に入学したのは大きな快挙であったろう。当時の宮古の医学は江戸から続いた漢方医がほとんどであり、翌年の明治25年3月2日に半次郎が提出した佐々木医院開業願い届けは鍬ヶ崎、における近代医療の夜明けと言っても過言ではない。

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