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払川舘

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目次

沼里舘を捨て津軽石氏が築いた要害の舘

国道45号線から荷竹方面へ折れJR山田線の踏切を渡り瑞雲寺へ向かう右手の山が舘跡。舘南側上り口には現在も井戸が残る。中腹には舘神として諏訪神社が祀られ主郭の周りは空掘になっている。

千徳氏・津軽石氏・不和

千徳舘興廃実記』によれば一戸行政(後の津軽石信濃)が津軽から「汗石」を持ち帰り鮭が大漁となったが、その取り分は本家筋の千徳氏と津軽石氏と半々にする取り決めがなされ一戸行政の代は両氏とも鮭の大漁を喜んでいた。しかし、天正6年(1578)頃、津軽石氏は代替わりし一戸鬼九郎行重が家督を受け継ぐと千徳氏への上納は滞るようになる。これに対し千徳氏は決め事を守らない津軽石氏に対して不服を申し立てる。これをうけ一戸鬼九郎行重は「自分の領分より漁するものを本家たりとも分け遣わす道理なし」と反発。千徳氏は初代・一戸信濃が一戸鬼九郎行重の父・一戸行政に領地を与え漁場を守らせたにもかかわらず恩義を忘れたくせ者なりと激怒する。この間に立ったのが、やはり初代一戸千徳氏・一戸信濃から八木沢・磯鶏を相続した一戸重連(しげつら)こと弥義沢左馬之助だった。鬼九郎行重は叔父にあたる弥義沢左馬之助の説得を受け入れ、本家千徳氏・分家津軽石氏の不和も表面上は解消したかに見えた。しかし両者の怨恨の根は深く後の鬼九郎行重謀殺へ発展する。

両家不和の理由は鮭だけではなかった

古城物語』では当時の鮭水揚げは宮古川(閉伊川)の方が断然多く、記録から見ても津軽石川の鮭漁は微々たるものだったとし、千徳・津軽石両氏がいがみあう溝は別の所にあったと推論している。
 津軽石信濃が没し若くして城主となった鬼九郎行重は、旧来の決め事を否定し、それが本家を軽視する横柄な態度として千徳氏にとって許し得なかったのだろう。この頃の千徳氏は、一戸政明の跡取り政吉が「浅石氏」と名のり浅瀬石城主であったため、その一子・政氏が千徳城を統治していたと考えるのが最も順当であろう。将来的に父・政吉は千徳に戻らず浅瀬石城から千徳を管理するであろうと考えた一戸政氏にとって、分家であっても一戸鬼九郎行重は最大の危険因子になると判断したのかも知れない。

家臣・衣笠東伝の謀反により、千徳城内にて鬼九郎行重斬死

天正11年(1583)1月11日、本家・千徳氏(ここでは一戸政氏とします)の元へ正月の参賀に行った津軽石払川舘城主・一戸鬼九郎行重は千徳氏の謀略により千徳城内で自らの家臣・衣笠東伝に討たれ死亡、1月15日後城主を失って弔い合戦に武装する津軽石の払川舘に、争乱鎮圧のため千徳軍が押し寄せ合戦となる。
この合戦は宮古地方において戦国時代最大規模のもので、その様子は江戸時代に書かれた『東奥古伝』をはじめ明治期の『千徳舘興廃実記』など多くの古文書に記載されているが、ほとんどが活劇風な描写となっており、登場人物、一戸鬼九郎行重殺害現場、払川舘合戦の詳細はあてにならない。しかし、これらの記述を要約すると、一戸鬼九郎行重は家臣・石至下八郎、荒川左助、衣笠東伝等を従えて正月の参賀のため千徳城へ赴いた。両城主無事顔合わせが済み宴が終わり、一戸鬼九郎行重一行が城を辞す時に事件が起こる。なんと鬼九郎に同行していた家臣の一人、衣笠東伝が刀で鬼九郎を刺した。鬼九郎は恨み言を残しその場で息絶え、衣笠東伝を討つため石至下八郎らが抜刀、これを鎮めるため千徳の兵も抜刀した。衣笠東伝は千徳氏と内通していたとされ、千徳城の本丸へと逃げ込んだ。石至下八郎は追撃をあきらめ大手門から北へ逃走したが笠間舘付近に潜んでいた千徳氏の待ち伏せに討たれる。荒川左助は西へ逃走し閉伊川を越え、松山に至りそのまま津軽石払川舘にたどり着き事の顛末を報告、これにより津軽石氏は武装決起することになる。

鬼九郎家臣・石至下七郎墓標

石至下八郎が千徳勢の待ち伏せで討たれたのは、現在の岩手県北バス営業所背後の旧街道で墓標が立つ。この場所を特定したのは郷土史家・佐々木勝三、鈴木哲らで発見。当時は塚らしき土盛りがあったという。

鬼九郎家臣・荒川左助の敗走

石至下八郎が来た道を戻り、笠間舘ちかくで待ち伏せていた千徳勢に討たれたのに対し、荒川左助は南へ逃走し閉伊川を渡り松山にたどり着いたとされる。松山は白根氏の所領だがこの頃、白根市は田鎖氏の軍事力に屈服しており力は衰退していた。荒川左助は松山から八木沢に抜け、その足で払川舘に戻り事の顛末を報告、弔い合戦の決起につながったと思われる。また、荒川左助は払川舘落城の際、鬼九郎行重の妻とその一子を連れて舘を脱出、自分の所領荒川の奥福士に二人を匿い、浪人となり事の顛末を三戸南部公に報告した。

鬼九郎行重謀殺に関する謎と不明点

津軽石氏VS千徳氏の敵対とその背景には大きな疑問が残ったままだ。新たに津軽石を統治し上納を渋ったのは一戸鬼九郎行重だが、それに対して不服を申し立てたのが千徳氏の誰なのか不明瞭ではっきりしていない。推測では鬼九郎行重の父と葛西党征伐に従軍した一戸政吉か、その子・政氏と思われるが確定はされていない。一戸政明の子・政吉は津軽石・千徳騒動があった時期は浅瀬石城にいるので直接の関与はなっかたと考えられる。その点、政吉の子・政氏なら鬼九郎行重と年齢も近いうえ、若くして家督を受け継いだ鬼九郎行重にライバル心もあったかも知れない。いずれにせよほとんどの古文書において「千徳次郎善勝」という人物が一戸千徳氏の誰を指すのかを特定しないまま、その名を引き合いにし、この人物が鬼九郎行重を謀殺し払川舘を攻めたとしている。
また、千徳城へ出向いた鬼九郎行重一行の移動ルートも不明だ。謀反を起こした衣笠東伝を追い、叶わぬとみて逃走した石至下八郎は、笠間舘(現・舘合)付近で待ち伏せていた千徳勢により討死しているが、どうして千徳勢は待ち伏せが可能だったのか疑問だ。これに関して『古城物語』では笠間舘城主・一戸員連(かずつら)は千徳氏の遠縁にあたり、千徳城に入る北東側主要街道手前を防御する役として笠間舘にいたのではないかとしている。そして閉伊川を渡り松山方面に逃れた荒川左助はおそらく親戚筋である弥義沢左馬之助が統治する八木沢へ抜け津軽石に戻ったものと考えられる。
 また、津軽石払川舘を攻めるために払川舘へ至る千徳軍(約200)の移動コースも不明だ。各文書は千徳方へ寝返った衣笠東伝の道案内で払川へ至ると記載しているがその道筋の詳細は不明だ。

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地図

https://goo.gl/maps/nmwvm

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