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山本弘

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  • やまもとひろし【分類・生物学者】
  • 明治~昭和:明治35年~昭和59年(1902~1984)

自然研究に生涯を捧げた気骨の生物学者

鹿皮のジャンパーをトレードマークに「船長」とあだ名された、宮古高校教諭・山本弘は、明治35年(1902)生まれで大正8年(1919)横浜第二中学校を一期生で卒業、同13年(1924)横浜高等工業学校応用化学科(現横浜国立大学前身)を経て当時の松尾鉱山へ入社。分析研究課長として鉱毒解消の研究に当たった。しかし、山本は鉱毒が計り知れない多くの環境を破壊するとして鉱山を経営する会社側を批判し対立、戦時下でもあり最終的に解雇されてしまう。 昭和17年職を失った山本は、下閉伊郡山田町船越(船越村)の藩政時代から続く鷲猟師・漉磯七兵エ衛(すくいそしちべえ)に身を寄せる。鉄砲による狩猟も趣味だった山本は七兵エ衛に連れられて宮古の佐藤銃砲店にも訪れた。そこで後の常安寺23世、阿部文龍(ぶんりゅう)師と出会う。当時文龍師は宮古高校の教師をしており、昭和23年、教員免状を持っていた山本を宮古高校教師として迎える橋渡しをした。その間、山本は北上川の汚染を解消するための北上川清流会を組織、地道な社会運動でそれを達成している。
昭和27年(1952)7月21日、田野畑村甲地(かっち)の平野で宮古高校生徒、菊池純一が蝶を捕獲、これを標本として生物教師であり同高校生物部の顧問だった山本に提出した。これを見た山本は蝶が新種であり大変珍しいものであると判断、生息地、食草など綿密な現地調査等を行い当時の日本蝶学会の権威、岡野磨瑳郎(まさろう)氏へ報告。後にその蝶がチョウセンアカシジミであることが判明する。この他にもミドリシジミの新種発見など、120種類以上の蝶の分布や周年出現状況を調査研究、新種、亜種を多数発見している。また、研究は蝶ばかりでなくあらゆる昆虫や鳥類にも及び多くの標本、調査記録、論文を残し学会に発表し続け、多くの賞も受賞している。
宮古高校退職後は宮古高等看護学院講師を経て昭和47年には修紅短期大学で教授を務めた。退職後の晩年昭和59年2月28日、肺ガンのため一関の病院に入院、心筋梗塞のため死去、82歳であった。葬儀は教え子たちの手により常安寺で営まれ、旧知の仲だった文龍師が引導を渡した。

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