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久保利七

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  • 田老町二代目町長

産業・観光振興で戦後の田老を牽引

 久保利七は明治43年(1910)田老に生まれた。盛岡商業を中退後田老鉱山事務員、東京汽船を経て昭和5年(1930)21歳で田老町役場に入ったが7年後の昭和13年(1938)岩手県職として下閉伊支所へ転身した。下閉伊事務所の兵事厚生課長、西磐井事務所同課長、気仙事務所総務課長、終戦後には上閉伊事務所内政課長、県庁厚生庶務主任兼同課長代決者となった。戦後、復興も含め公務員として周囲からも一層の活躍が期待されていたが、新しい民主主義の時代を迎え、昭和22年には新憲法にのっとり住民が選挙で首長を決める第一回公選選挙が迫っており、県職を辞し田老町長選挙に出馬する。

 選挙は当時37歳だった久保利七の他、39歳、69歳の候補者との三つ巴となりわずか36票の差で当選した。ちなみに前町長であり田老村から田老に町政を敷いた初代町長の木村平右エ門も立候補を表明したが公職追放令で出馬を断念している。

 以後、久保利七は5回の町長選挙において対抗馬が現れず6期半ばを無選挙で当選し21年10ヶ月にわたり田老町長として生活基盤を整え産業、観光振興に力を注いだ。なかでも昭和30年(1955)の陸中海岸国立公園指定後は、景勝地としてまだ知名度が低かった真崎海岸、三王岩を世に送り出し、岬の先端には国民宿舎として三王閣を建設した。また、三陸縦貫鉄道(現北リアス線)の実現は生涯の悲願であり建設運動に尽力した。そんな利七を見て良き理解者だった当時の盛岡市長吉岡誠は「真崎を世に出す働きは執念であった、波の音は彼の鼓動であるようだ」と讃えている。

 そんな利七であったが昭和43年(1968)頃から体調を崩し、すい臓の手術を受けたが、翌年の2月5日岩手医大病院で他界している。

 葬儀は昭和44年(1969)2月11日、町葬として営まれ多くの町民がその死を悼んだ。死後、正六位勲五等双光旭日章を叙勲、昭和46(1971)には三王閣敷地内に顕彰碑が建てられブロンズのレリーフ(吉川保正・作)と台座には利七が最も好きだった「人の幸せは心の美しさから」の言葉が刻まれている。  顕彰碑建立の翌年には利七の悲願だった当時の国鉄宮古線(宮古~田老)が開通し、後の三陸鉄道北リアス線の足掛かりとなった。

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