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2009/06 岬信仰にまつわる田老の古碑と顕彰碑

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 今月は先月号特集「岬めぐり」の取材において宮古以北の岬を訪ね歩いた際に田老方面で見かけた石碑を紹介する。

 先月の特集では岬信仰・竜宮信仰のコラムでおおまかにこれら石碑を含む海の信仰に触れただけで実際に取材した石碑や神社などの信仰媒体についてはスペースの関係上詳しく紹介出来なかったので今月改めてで見かけた石碑を紹介する。

 岬信仰は船が現在のように発動機などの動力船ではなく風を頼りに航行していた時代、海上から目視確認できる高い山や岬を目印として漁をしていた名残であり、浜を出て戻る漁師たちが見慣れた岬を見て安堵し、大漁と海上安全のため岬先端に石宮やしめ縄を祀ったりしたもので、後に神社などになって漁師以外の人々にも信仰されたものだ。そのような信仰媒体で全国的に有名なものに金華山信仰、金比羅信仰などがある。宮古湾であれば閉伊崎先端の黒崎神社か(通称・尾崎様)、鍬ヶ崎の舘ヶ崎付近の竜神社(通称・龍神様)、亀ヶ森、黒森神社などがそれにあたる。

 今回紹介する田老真崎の石碑は南に真崎、北に明神崎をもつ太平洋に向いた大きな入り江の南北に位置する小港漁港と青の滝漁港にあるもので、それぞれ真崎に真崎神社、明神崎に加茂神社が祀られている。

 最初の石碑は小港地区の弁天神社の祠の下にあるもので、横書きで魚霊塔の文字に、鮭のような魚と波の彫りがあり、田老町漁業共同組合・赤島漁場・沖小港漁場、左に縦書きで昭和六十一年(1986)吉日建立とある。石碑は横長の方形で下部には大謀・畠山勲を筆頭に、親方・清水豊司、漁夫長・小林次男、佐々木正治をはじめ、定置漁場と港を往復する捲網漁船一号、二号、三号、五号、八号、動力のない運搬船の和船の各船長、船頭、機関長、友押の名前と、炊事婦の女性3名を含め計64名の名前が連なっている。 建網での分配システムは各網場で様々だが大まかなところ番屋で料理番をする女性の取り分を1人前とし、役が上がるたびに1人前が倍加する。当然ながら大漁すれは建網の出資者である網元が大きな利益を得るが、現場では網元から全権を依頼され人を動かす大謀が最も取り分があり、次いで親方、漁夫長、船長…となっている。

 次の石碑は小港漁港と入り江をはさんで反対側の青の滝漁港にある湊供養と龍神塔と刻まれた2基の石碑だ。石碑は浜の番屋脇にあり台座は浜にある岩でコンクリートで固定されている。湊供養は右に天保九年(1838)、左に二月十日惣(総)村中、右下部に源三郎、同作之丞、松次郎、甚九郎、久二郎、十福の連名がある。龍神塔には右に弘化四年丁未(1847・ひのとひつじ)、左に四月吉日、下部右に石工・甚蔵、喜久松、左に両村中、宝明院とあり、これは山伏の名前だ。台座は自然の岩で石碑はコンクリートで固定されているがコンクリートには十数個の鮑の貝殻が埋め込まれているのもユニークな特徴だ。

 最後の石碑はかつての国民宿舎三王閣の横にある久保利七のレリーフのある顕彰碑だ。 久保利七は田老町長だった人で明治42年(1909)田老生まれ、昭和8年(1933)田老町書記となり、戦後昭和22年(1947)初の民選町長となった。当選時利七は38歳で以後6期22年間町長を務め昭和42年(1967)、60歳で病没した。利七は防波堤保全、田老漁港整備、国立公園実現への努力、三王閣をはじめ施設整備などで旧田老町の発展に尽力、国道45号線整備、三陸縦貫鉄道実現へ執念を燃やしたが、現在のそれらを見ずに他界した。そんな利七は没後叙勲しそれを期に昭和46年(1971)2月5日、顕彰碑建設委員会が設立、利七の銅板レリーフのある石碑を三王閣横に建立したものだ。碑の設計は岩手県文化財専門委員・瀬川経郎、レリーフ制作は重茂出身の彫刻家・吉川保正、碑文・書は元岩手県副知事・吉岡誠。レリーフ下には「人の幸は心の美しさから」の利七の弁が刻まれている。近い将来に施設の全面撤去が予定されている三王閣だが解体工事でこの石碑がロストしないよう願うばかりだ。

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