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2013/06 宮古の旅館の歴史

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 震災後、復旧支援で多くの人が宮古に入った。しかし、被災地の宿泊施設は電気水道の復旧が遅れたり避難所となったりしていたため、応援部隊の「ヒタヅ/人々」を受け入れる状態ではなかった。それでも復旧に携わる人たちのために幾ばくかの宿泊施設が稼働したがどこも連日満員で宮古の宿は極端に「タンネー/足りない」状態だった。そんな震災から二年が経った。まちは新しい姿、あるいは元通りの姿へ変わろうとしているようだが、未だ現実は厳しく建物が「ブッカサレダー/壊された」かつての繁華街には「ツヅボゴリ/土ぼこり」が吹きすさぶ。そんなまち並みをとぼとぼと歩いていると昔の風景を思い出す。そんなわけで今月は宮古の旅館を振り返ってみようと思う。

 旅館の前身は江戸末期の旅籠だ。当時は街道筋に宿場が発生しそこを中心にまちが拓けていた。江戸時代の宮古町では今の「ヨゴマズアダリ/横町付近」であり数軒の旅籠が軒を並べていたと思われる。旅籠は薪を買って自分で自炊する木賃宿と食事が付いた賄い付きがあったようだ。木賃宿の木賃とは文字通り薪の代金の意味で今で言う湯治場にある自炊宿のことだ。宿場は街道筋にあったから当然、鍬ヶ崎村、田老村、箱石村、川井村、茂市村にも旅籠があったであろう。しかし、鍬ヶ崎はその頃から花街でもあったから旅ではなく別な目的で泊まる客も多かったのは当然だろう。

 明治・大正になると三陸定期船の就航や築地の閉伊川左岸埋立により「キューダデ/旧舘・愛宕」に「ケーサズ/警察」などの庁舎が建ったことからこの周辺に旅館が発達した。その後、昭和9年の国鉄山田線開通で町は西へと移動し宮古駅周辺や大通に旅館が建ち並んだ。このように旅館の発達と衰退は今も昔も交通の流れに大きく左右されるようだ。

 さて、そんな大雑把な前置きは良しとして、昭和40年頃に繁華街にあった懐かしい旅館を見て行こう。戦後、仕事だけでなく観光に目覚めた日本人はディスカバージャパンの旗の下、国内観光で日本中を大移動した。この当時1$が360円の時代、海外旅行は高嶺の花であり、庶民は痛い「ケッツ/尻」をさすりながら鈍行列車で日本中の名所旧蹟を見て回るのが関の山だった。そんな時代、陸中海岸国立公園の中心地として宮古にも「テースタ/たいした」観光客が押し寄せた。宮古駅には蛍光灯を仕込んだ各旅館の電光看板が並び改札を出ると、右手に観光案内所があり列車を降りた人はここでその日の宿を探した。「エギメー/駅前」は混雑し旅館の名が入った半纏を着込んだ客引きまでいた。この当時、駅前周辺にあった旅館は住吉旅館、八幡館、清水荘、みやこ旅館で、大通り方面に山田屋、山田屋別館、晃生館、中済旅館、青雲閣、鶴仙旅館、篠田旅館、大向旅館、イトウヤ旅館などがあった。末広町方面には、末広館、八百平旅館、扇橋旅館、みゆき旅館、宮城屋、松本旅館があった。新町方面は山田線開通前まで盛宮馬車・盛宮自動車の駅があったことから、熊安旅館、木村旅館、沢田屋別館、菊清旅館、沢田屋旅館、茂七屋旅館、幸館、沢田屋新泉閣などがあった。あとは鴨崎方面に阿部旅館、藤盛旅館、小沢方面に佐藤旅館、緑屋旅館、築地方面に中川旅館、昭和館、築地旅館、田代旅館などがあった。当然ながらここに羅列した以外にも繁華街、磯鶏、鍬ヶ崎、赤前など各地区に多くの旅館があってあふれる宿泊客を受け入れていた。

 さてそんな旅館には各店それなりの特徴があった。例えば新町の茂七屋旅館はその昔、大通りで行われた(現在の後藤医院付近)牛馬の「オセリ/競り」に参加する競り人がよく泊まったし、宮古に自動車販売の営業所がなかった時代は盛岡から宮古に入って営業するセールスマンは松本旅館を利用した。また、黒田町の木村旅館は自転車などで旅行する若者が泊まる超格安ユースホステルだったし、第二常磐座の「スズムゲー/筋向かい」にはラサ工業宮古工場の「エレーサマ/幹部連」が泊まる会社専用の南山荘もあった。

 旅館と言えば旅行客のみが利用する場所でもなかった。繁華街にある旅館にはまた別の一面もあった。昭和30年代前半に売春禁止法が制定されたとはいえ、宮古は江戸の昔から続いた赤線地帯でありそっち方面の需要は法律云々とはまた別のベクトルで成長するのは世の常であった。また、三陸沖では海から魚が「ウェーデ/湧いて」くるように捕れ、全国のサンマ船団が鍬ヶ崎に押し寄せた時代、夜の飲食店はもの凄い繁盛で接待に従事するホステスさんも大勢いた。カラオケもなくごまかしが効かない時代だから飲んで騒いでダンスを踊って交渉成立でアフター可能な「モスカヤ/もしかたら…までいけるかも」的店も多かった。そんなニーズに利用されたのが夜間でも宿泊・休憩が可能な旅館であった。この時代の宮古風俗界で名を馳せた人は現在は80を越しているだろうからその頃の交渉ステップの詳細は不明だ。しかしながら、飲んでいる店から馴染みの旅館へ「イマカライグスケーニ/今そっちへ向かうから」と電話で宿に予約を入れそれからハイヤーを呼んで宿へと向かったようだ。旅館に着くと運転手に翌朝○時に迎えにくるようにと予約を入れ二人は寄り添って旅館へと消えるのであった。

 カップルのことアベックと呼んだ時代、庶民が持っているのは良くてオートバイ「ズドーサ/自家用車」を持っているのは製材所の社長さんか病院の先生だけだった。そんな時代であったが来たるべく自動車社会を見越して昭和40年代半ば津軽石にモーテル払川がオープンした。それは独立した小さなガレージ付きコテージで、それまでの宮古にはなかった貸別荘とも呼ばれるスタイルだった。しかし、自家用車で乗りつけるのはごく一部、ほとんどの利用客は「ヤッパス/やはり」タクシーで乗りつけていたらしい。

 旅館は旅人だけでなく男女が織りなすそんな営みも平然と受け入れ進化してきた。その存在は今も昔も変わらない。時代とともに流されて消えてしまった旅館、震災を契機に暖簾を下げた旅館、今でも昔ながらの屋号で営業を続けている旅館、そんな宮古の旅館を思い出して当時の風俗を振り返ってみるものいいものだ。

ためになる宮古弁風俗辞典

ぜね

銭。お金。金銭。現金。

「銭」と書いて「ぜに」と読む。言わずとしれたお金を表す言葉だが「せん」とも読むことから、お札ではなく硬貨のイメージが強い。近年はべらぼうな10万円金貨などもあるから「ジャラセン/小銭」と言ってもあなどれない。宮古弁では「ゼニ」の他に「ゼネ」「ゼンコ」「ジェニ」などと表現され語尾に「コ」を加え「ゼネコ」「ジェンコ」と言う場合もある。何かを買おうとして持ち合わせが不足している場合は「ゼネガネー/金がない」と言う。相手に金を要求するときは「ゼネーダセ/金を出せ」と言う。しかし、近年はお金のことを「ゼネ」と呼ぶのは高齢者、しかも男性が多く、女性でお金のことを「ゼネ」と言う人は極めて少ない。したがって「ゼネ」はあまり意識されていないが宮古弁での中の男言葉であろう。また「ゼネ」に比べ「カネ」は金(きん)であり濁点や汚れがなく光り輝く高貴なイメージがする。とは言え細かい「ゼネ」だって無いよりあった方が断然いいわけで、逆さに振っても何も出ないようになったらおしまいです。

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