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2012/07 昔のみせや(商店)はワンダーランド

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 近年、食料品を買うといえばほとんどが大型店舗のスーパーが主流だ。買い物の足も徒歩や自転車ではなく自動車が主流でスーパーも広い駐車場を備え顧客に対応している。電車やバスなどの交通機関が未整備・未発達のイナカでは人の移動は自動車に頼りがちで、一世帯で数台の自動車を所有するのも今では普通となった。加えて冷蔵庫も大型化し何日分もの食材を貯蔵できるようになり主婦は毎日の買い物から解放されたと言えるだろう。

 多くの棚に陳列された商品の中から欲しい商品を選び備え付けのカートに入れてレジで一括精算する販売システムはいつの時代に定着したのだろうか。客は無言で目的の品を探しさっさとレジに向かい品代を払い帰る。今ではごく普通の光景なのだが、これで本当にいいのか?と思ったりする。昔の買い物風景には会話があった「コレハ、ナンボース/これは幾らですか」と店主と会話しながら買い物をした気がするし、客同士も「ミセヤ/雑貨屋・小売店」で会っては井戸端会議に花を咲かせていたものだ。昔の「ミセヤ」は品数も少なく狭い空間ではあったが、それでいておおらかな買い物風景があったような気がする。明るく清潔で便利でおいしい物が何でも揃うスーパーにはない人間味があったのではないかと感じる。

 「ムガース/昔」そう、昭和40年代頃だろうか僕は小山田のあけぼの団地に住んでいた。夕方近所を「ハッサリッテ/走り回り」遊びから帰ってくると家では「ゴハンスタグ/夕餉の準備」がはじまっていたものだ。一口しかないガスコンロに鍋が掛けてあり何やら煮込まれいるが、立ちこめるその匂いは僕の好物ではなく限りなく和風な煮物だったりする。当時は肉や揚げ物がおかずになる日は極めて少なく、タンパク質のほとんどは干魚だったような気がする。だから僕らの子供時代は肉に対しての渇望は大きくたまに肉にありつければ「ビロメガステ/行儀悪く」食い漁ったものだ。

 当時の主婦は日の暮れが迫る夕方になると決まって買い物に行った。あの時代、冷蔵庫は小さく買い置きもほとんど出来なかったから毎日の買い物は主婦の日課だったのだろう。買い物へは自前の買い物カゴを持参した。中に入っているのは財布ではなく通い帳が一冊。当時の小売店は売り掛けが普通で月末精算のような支払いシステムだったから行く「ミセヤ/食料品店」は必然的に決まっていた。「○○サンサ、イグゾー/○○さん(商店名)に行くぞ」と母親に声をかけられると、もしかして何か買ってもらえるかもしれないという淡い期待から「オラモイグ/おれも行く」と返事してしまうのだった。

 当時の「ミセヤ」の店舗構造はどこも似たようなもので、まず入口は半間のガラス戸が4枚から6枚で庇に日除けのテントを巻くロール、柱にはカメヤマロウソクやヤマト糊のホーロー看板、木製フレームで四方がガラスの「パンコ/パン」ケース、ハエを「ボウ/追う」ためのテープが回る電動ハエ除け、針金にぶら下がったバナナ、一斗缶に入った豆腐や「コンヤグ/こんにゃく」、中が霜で真っ白になったアイスのストッカー、奥の棚にピラミッドのように飾った缶詰などがあった。そして奥にはリボンシトロンなどのメーカーロゴのある小型の冷蔵ケースがあって僅かながらの肉やバター、清涼飲料水が入っていてその後ろに店主が木製の5玉算盤を持って立っていたものだ。「ミセヤ」はその地域唯一のデパートだから味噌に「ソーユ/しょう油」専売品の「スオ/塩」「オガス/お菓子」から父さん用のタバコ、果ては熨斗袋に香典袋、パンツのゴムから画用紙、ちり紙、線香、ロウソク、縫い針まで何でも売っていた。

 そんな小さな地域の総合デパート「ミセヤ」で僕がずっと気になっていた商品があった。それは台形で牛の絵に特殊な缶切りが付いたK&K国分のコンビーフの缶詰と、普通の丸缶だが橙色でおいしそうに見えた確か桃屋の鯛みそという缶詰だ。この二品は当時子供だった僕には中身の予想ができなかった。母親と買い物にきても単独で「ミセヤ」にきてもいつもこの缶詰がどんな食べ物なのだろうと不思議に思い同時にいつかは食ってやろうと憧れていた。この缶詰はどちらも結構なお値段だったから母親に「コレ、クイテー/これ食べたい」とせがんでも「ワラス/子供」が食うものじゃないと言われるのがお決まりだった。結局母親が買うのは「アブラゲ/油揚げ」「ニンズンゴンボー/にんじん、ごぼうなどの野菜類」そしてやはりサンマやイワシの丸干しなどだ。「ミセヤ」では「アブラゲ」を「ケーギ/経木」で巻いて輪ゴムで止める、魚は緑色の紙で包み「スンブンス/新聞紙」で包装、野菜は包装せずそのままだ。店主はパチパチと大きな算盤をはじいて通い帳に記載しハンコを押して「ハイ、ドーモオオキニエ/はいありがとう」と通い帳を返す。僕はバナナも食べたいしパラソルチョコも食べたい、一歩譲ってエイトマンのふりかけも欲しい…。「ミセヤ」の帰りしなに「ハンクヅアゲデ/半口開けて」外へ促されるのだった。

 帰り道、陽は暮れて団地は「ドッコデモ/どの家も」夕餉の仕度に忙しい。どこもおかずは違うのだろうが結局は同じ「ミセヤ」の食材が中心だから結局似たようなものを食べていたのだろう。買い物から買えると父親はすでに帰っておりモッキリを「ヤツケデ/飲んで」相撲観戦だ。僕は、ああ『マグマ大使』「ミッテーナ/観たいな」と思うのだった。

 さて、そんな時代からずっと経って、僕は従兄弟の家でコンビーフを食べる機会に恵まれた。付属しているカギ状の金具で缶を切り開けた中身は脂の塊だった。これを切ってそのまま食べたが、まさに「ワラス」が食べるものではなかった。それからまた時代が下がって団地住まいから一軒家住まいとなった中学の頃、ある「ミセヤ」で桃屋の鯛みそ缶詰を発見し思わず買った。僕は鯛の身を味噌で煮た鯖みそ缶のイメージで缶を開けた。しかし、中身はただの鯛風味の味噌だった。ご飯にのせて食べてみたがまったく感動しなかった。少年時代に恋い焦がれた缶詰の最高峰の憧れはあえなく崩れ去ったのであった。

懐かしい宮古風俗辞典

おでんせ

おいでなさい。いらっしゃい。おいでください。

 今回の津波で大きく被災した中央通りは、復帰後商店はかなり減ってかつての繁盛振りは夢の彼方となってしまった。そのかつての中央通り商店街が定期的に開催していた企画に「おでんせ市」なるものがあった。チラシには載らない掘り出し物があるかもよ。という期待感で「ヨットデンセ/およりなさい」という感覚の売り出しだった。おでんせ市が毎月いつだったのか、特定の設定や決まりがあったのかどうかは今となっては忘れてしまったが、その日の中央通りでは歩道に出店を出したり、通常価格から割引きで商品を販売していた。「オデンセ/いらっしゃい」「オヘレンセ/お入りなさい」は宮古弁の中では上品な格がある言葉で「オデンセ」は「キトガン/きなさい」「コー/来い」へと変化し、「オヘレンセ」は「ヘーットガン/入りな」「ヘーレ/入れ」へと変化する。これらは相手の格や年齢の相違によって使い分けられる。ちなみに最近は使う人がめっきり減った宮古弁上品言葉「オヨーデンセ/用事ができたらいつでもどうぞ」もあり、これらの宮古弁は絶滅寸前であり今後は「オオキニ/ありがとう」同様に保護してゆく必要がありそうだ。

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