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2012/05 花見とともに思い出す懐かしのあの唄

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 北国にとって春の到来は心から嬉しいもので、水が温み田植えシーズンを迎えるとともに「キスパマ/岸浜・沿岸」では「ソエ/春磯漁」や「コーナゴ/小女子」漁などで漁業も忙しくなってくる。そんな時期を飾るのが桜であり、宮古ではまだ外で飲むにはちょっと「コザミー/小寒い」けれど桜の下で「ゴッツォー/ご馳走」を広げて飲む花見の宴はいつの時代も格別なものだ。

 昨年は震災と大津波に破壊された瓦礫の山をバックに咲くピンクの桜は「イダマスクテ/痛ましくて」誰も花見などしなかったし、まちが「ブッカサレ/壊され」多くの人が亡くなったどん底状態で盃をかかげ「ナニサ/何に」乾杯したらいいのか、どう酔えばいいのかわからなかった。そしてあの日の桜からまた一年が経ち今年も桜が咲く。まだまだ悲しくて辛いことだらけだがこうして季節は巡ってゆくのであろう。

 さて、その昔、宮古の花見名所と言えば鍬ヶ崎の臼木山であった。樹齢100年近い桜が一斉に咲き誇る景色は春の鍬ヶ崎の名物でもあった。しかし、昭和60年代にテングス病という特有の伝染病で花付きが悪くなり最終的に惜しまれながらもすべてのソメイヨシノが伐採された。その後新たに様々な種類の桜を植栽し、東屋、トイレなどを整備し現在は港の見える公園として親しまれている。

 臼木山は大正時代、宮古町と合併する前の鍬ヶ崎町の起業家、漁業家、揚屋、置屋、料理屋、遊郭などの有志が集まった鍬ヶ崎遊興組合加盟店などに呼びかけて桜の苗木を植栽したものだ。それ以来、鍬ヶ崎界隈では臼木山と呼ばず「サグラヤマ/桜山」と呼ぶようになる。臼木山は中世の頃に臼木氏(田代)という地方豪族の所領で江戸期までお屋敷があったという説もあるが定かではない。桜を植栽した当時の鍬ヶ崎町は宮古~塩釜間を結ぶ三陸定期汽船が就航するなど宮古の海の玄関でもあり、まさに経済、風俗とも右肩上がりの黄金期であったから臼木山の桜植栽も新たな観光名所開発の一環だったと思われる。その後、昭和9年に山田線が開通し宮古の玄関は海路から鉄路へと変化してゆくのだが、戦前までは鍬ヶ崎の花柳界も元気だったから、その時代、花見時期の「サグラヤマ」はまさに芸者を呼んでの大騒ぎであったろうと推測される。

 時は下り、昭和40年代、桜の時期になると市内のどこから見ても鍬ヶ崎の臼木山がピンク色に霞んで見えた。また、この時期になると市内の桜名所とされる場所では土日になると「ドゴダリデ/所かまわず」花見の宴が催されていた。当時は今より娯楽が少なかったし、人々が季節に応じてイベントを楽しんでいた。だからあの時代は飲み会に理由など必要なく、「ホンダーテ/だって」桜が「サイターモン/咲いているもの」という単純な動機で職場、学校、地区、町内会など様々なメンバーが花見をやっていたようだ。ちなみにそのメンバーは秋になれば芋の子会でまた飲むのであった。

 あの頃、花見名所としてよく使われたのは前述の「サグラヤマ(臼木山)」を筆頭に山田ブナ峠の光山岳泉荘、「ケバレーズ/花原市」華厳院参道、「イッセキサマ/一字一石公園」などが有名だった。ただし「サグラヤマ」は海沿いのため「マガダ/北東風」が吹いて寒く開花が遅く、「イッセキサマ」は「カゼップギ/強風」で料理が「ツヅダラケ/土だらけ」になるなどの欠点もあった。開花が早いのは華厳院参道だが、寺だけに葬儀もあるわけで喪服集団を見ながら酒盛りするわけにはいかない。そうなるとやはり無難な「サグラヤマ」が花見に丁度よいし場所さえうまく取れば風も防げる。

 花見の「ゴッツォー」は仕出しなどではなく、参加者の家で持ち寄った家庭料理がメインだった。定番はやはり「ニスメ/煮しめ」と「オゴーゴ/漬け物」でその他にミカンの缶詰が入ったマカロニサラダやいなり寿司、のり巻きなどが並んだ。そして宴もたけなわになると揉み手の手拍子で歌がはじまるのだった。野外だし無論現在のようにカラオケなどはないから、芸達者な人が歌ったり踊ったりして場を盛り上げていた。そんな歌の中に今でも耳に残る歌があるので紹介しよう。

♪わたしのラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人…
赤道直下マーシャル群島
ヤシの木陰で テクテク踊る…(以下省略)

 子供の頃の花見や地区の「オマヅリ/お祭り」芋の子会、ひいては運動会や地区のレクリエーションで「ヤッタグナル/嫌になる」ほど聞かされたこの曲は今でも出だしのメロディーが脳裏にこびり付いている。この歌を唄い一升瓶を振り回してエッチな動作で踊っていた人も、それを見て「ヨスハーヤレヤレ/いいぞ、もっとやれ」と大笑いしながら手拍子をしていた人たちも、今はもう雲の上の人だ。ちなみにこの歌は、明治25年(1892)にミクロネシアのチューク諸島(トラック島)に移住し、島の酋長の娘と結婚した実在の日本人をモチーフにした作品「ナンダード/なのだそうだ」。歌詞の中のラバさんは動物のラバやロバではなく、恋人=loverの意味だ。

 歌がヒットした頃は戦争色はなかったろうが、昭和に入り大日本帝国が南半球へと勢力圏を広げ、マーシャル群島などミクロネシア諸島を「南洋」と呼んでいた時代があった。大人たちが花見の酒に酔っていたあの頃、太平洋戦争が終わってからたった20年しか経っていなかったのである。そしてあの時代、立ってまともに歩けないほど酔っていた大人たちはどうやって家に帰っていったのであろう

懐かしい宮古風俗辞典

かっかべ

蝶々。鱗粉をまとった昆虫類。蛾も含まれる。

 私事で恐縮だが、亡くなった僕の祖母の名はテフだった。親父を身ごもったまま早々と離婚し以後はずっと実家にいた祖母はその家の甥っ子や姪っ子に「オジョウオバサン/お蝶叔母さん」と呼ばれ親しまれていた。昔、僕の家の家族構成を記載したり、団地の玄関に掲げる表札に家族全員の名を書く時、いつも祖母の「テフ」の名が不思議だった。僕は祖母の名は「テフ(tefu)」であり「オジョウ」は「お嬢さん」の略かと思っていた。しかし、祖母の名は「テフ」であり読みは「チョウ」だったのだ。誕生日は1月1日の届け、名は古語の「テフ」、母一人子一人。堂々としたもんだと思う。ちなみに蝶蝶を表す「テフテフ」という言葉は昭和21年に廃止された。大昔は頼りなく飛ぶ蝶蝶の姿態を見て雅な人々は「テプテプ」と呼んで、それが「テフテフ」となり、次いで「テウテウ」「チョオチョオ」になった。そして「チョウ」となり「チョウチョ」と変化し現在に至る。これはきっと童謡『チョウチョ』の歌の影響が大きいだろう。ちなみに遠野では「テビラッコ」と呼ぶ。宮古では蝶も蛾も含めて「カッカベ」だがその語源や成り立ちは不明だ。

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