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2009/11 嗚呼、懐かしの修学旅行

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 学校時代の思い出の中で今でも印象に残っているものに修学旅行がある。運動会や文化祭、遠足やキャンプもそれなりの思い出があるのだが修学旅行は別格だ。なにせクラスの仲間と一緒に旅行して知らない町で大人数が同じ宿に泊まるなんて通常味わえない非日常だ。特に小学校、中学校の修学旅行は旅行自体が珍しかった時代は思い出深いものがある。

 ひと昔前の一般家庭では家族旅行など希で遠方に住む従兄弟親戚の「ゴシューギ/ご祝儀・結婚式」などに出席するためだったりして、今のように家族がレジャーとして旅行するのはほんの一握りの「カネモヅ/お金持ち・裕福」の家庭だけであった。そんな時代だから山田線で「モリョーガ/盛岡」に行くだけで夢の大旅行だったし、川徳デパートのレストランで食事でもしたものなら「オラー、カワトグデ、ナポリタン、クッターガ/オレは川徳レストランでナポリタン食ったぞ」と後日、友だちに自慢できた。

 さて、修学旅行だが資料によると宮古の小学校で最初に修学旅行をやったのは昭和11年(1936)の愛宕小学校で、一泊二日で「モリョーガ」の映画館でカラー映画を観ている。これは当時の旧舘界隈が裁判所、税務署、航路事務所、電力会社などがある官庁街でそこへ「モリョーガ」あたりから配属された「エレーサマ/お役人」の家族が多かったためで、こと教育に関しては当時宮古一の水準であり愛宕小学校に配属される教師も盛岡の有名どころからくる優秀な「センセイサマガドー/先生たち」だったという。

 昭和45年に転校先の千徳小学校で修学旅行に行った僕の時代は「ミヤゴエギ/宮古駅」から「キシャサノッテ/汽車に乗って」「モリョーガ」へ。そこから東北本線で平泉まで南下、中尊寺を見学し夜は花巻の志戸平温泉で一泊、翌朝は盛岡の県庁を見学して川徳デパートで自由行動の後、山田線に乗って宮古へ帰るというコースだったと記憶している。このコースは当時の市内各小学校での修学旅行定番コースだったかも知れない。中学校の時はやはり宮古駅から汽車で「モリョーガ」へ。東北本線の特急「やまびこ」に乗りかえて一路宇都宮・日光へ。日光東照宮見学の後、宇都宮に一泊。翌朝は東京へ出て皇居、国会議事堂、上野動物園、東京タワーなどのお上りさんコースを見て都内に二泊。帰路は早めに上野駅から列車に乗ったが、それでも宮古駅に着くのは夜の9時頃になった。当時の盛岡~上野間は6時間以上もかかり移動時間も長いため乗り物酔いで「ハギズラガス/吐きまくる」輩もいたものだ。

 近年の小学校の修学旅行は生徒たちが小さなグループになって目的地で各自別々に見学し宿に戻る…などというパターンもあるらしい。携帯端末が発達したのでこれをトランシーバーのように活用して先生と連絡を取り合いながら知らない町で探検するかのように学習体験するわけだ。連絡が取れるから迷子になって「マヨーマッタリ/迷い回ったり」はしなくなったが「セーフ/財布」を「オドスタリ/落としたり」するのは今も昔も変わらない。ちなみに昭和9年に山田線が宮古まで開通する以前の宮古高等女学校の修学旅行は宮古から徒歩で川井村箱石まで歩きそこで一泊、翌朝の一番列車に乗って盛岡方面へ向かったらしい。

 修学旅行は教育の一環として生徒たちの見識を広めるための旅行ではあるが、小学生に金色堂建立の経緯とか、旅行でハイになった中学生に東照宮と徳川家康の関係など、どうでもいいわけで、気になるのはこの日と決めた告白タイムだ。これは非日常の場面で好きな相手に自分の気持ちを伝えようというものだ。旅行という開放感から普段とは違う相手の対応を願うもので、旅行前に仲良し数人が計画を模索し見学中に二人を引き合わせ告白を盛り上げるもので女子の独壇場だ。宿では「ワラス/子供」とはいえ男女を同じフロアに割り振るわけなどなく、夕食後の男女の接近はまず望めない。先生たちは夜通しでフロアをつなぐ階段で将棋をして不埒な輩を取り締まるのだった。女子が告白などで盛り上がっているのに精神的に幼稚な男子は大浴場で馬鹿騒ぎをしてやれ誰それの「ケッコ/陰毛」が濃いとか、色が「クレー/黒い」だの、部屋では無意味に枕投げで盛り上がったりと可愛いもんだ。

 家族におみやげを買うなんてはじめてだが適当な「オガス/お菓子」を買った。それより気になるのは川徳で買った潜水艦のプラモデル。山田線で宮古まで三時間の乗車に「スビレーキラステ/辛抱できず」箱を開けて列車の中で潜水艦を組み立てをはじめたのは誰であったか?旅行告白でカップルになったというあの二人は本当に付き合うのか?後日、先生が撮った修学旅行のスナップ写真(モノクロ)が模造紙に貼り出され希望者は番号を書いて申し込むのだったがいつも何か食っているか「ハンクヅ/半口」あけてぽかーんとしている自分が写ってる写真など欲しくもない。それでもやはり旅行から帰ってきて何となく一皮むけたような気がするのであった。

 今は比較的裕福な時代だから修学旅行はほぼ全員参加するが、ひと昔前は家庭の経済状態で行けない子もいた時代もあった。そのため学校によっては修学旅行の旅費積立もやって旅行資金に充てたし、生徒数が少ない学校や分校などでは本校の修学旅行に加わったりもした。最後に戦争中と戦後の荒廃期は修学旅行はなかったようだ。その時代に修学旅行なしで卒業してしまった人たちには申し訳ないが、僕たちは修学旅行ができる平和な時代に生まれたことを改めて感謝しなければならないと心から思う。


付録・懐かしい宮古風俗辞典

【てがかいー】

成長期などになどが何かをせずにいられず、ついつい余計なことをしでかすこと。

子供が絵を描くことを覚えると親はそれを褒めるから、子供はもっと褒められたいので紙といわずあらゆる物に絵を描こうとします。これと同じように人は誰かに「テースタモンダ/たいしたもんだ」とちょっと褒められたり認められたりすると有頂天になってあれこれやりだすものです。昔から手先は器用だったから前よりもっといい作品を「コッツェーデ/作って」もっと自分の才能を誇示し、褒められ羨ましがられ気持ちよくなりたいわけです。すると自分の人生において残された時間が気になり、この情熱があるうちに何かを作らなければ…と勝手に宿命を課せて自らを追い込んだりもします。もう朝から晩まで何かをせずにはいられない、まさに「テガカイー」状態です。しかしいつかはその熱も醒め、やはり自分には才能がなかったことに気づきます。いい気になって人に「ケデスマッター/進呈した」駄作を回収したくなります。でも、ご安心を、冷静に過去の作品を見れるということはそれだけ自分が高見に登った証拠。今後も精進してください。「テガカイー」ぐらいの方がボケ防止にもなります。

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