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2009/05 新里中里・永田石碑巡禮

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 先日テレビで長野県善光寺の7年に一度の御開帳のニュースをやっていた。善光寺は複数の宗派がひとつの寺院に同居する特殊な寺で、本堂に安置される本尊は一光三尊阿弥陀如と呼ばれる類を見ない組み合わせの三尊仏で一説には白雉5年(654)の秘仏と伝えられる。これらの仏は日本で造られたのか中国・朝鮮から伝わったのか不明だがその後、鎌倉時代に入り本尊の身代わりとして、新たに中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ善光寺独特の一光三尊阿弥陀如来が造られ、以後7年に一度の御開帳の時だけ特別に姿を拝むことができるようになったものだ。

 寺の御開帳制度は古くから行われており、宗教的意味合いはもとより寺に信者を集めるイベントであり同時に宿坊や門前の仲見世、遊郭などにも経済効果があり、街道整備、治安強化など江戸期には有名寺院を持つ藩の知名度と最終的には財政アップにも貢献した。そんな中で善光寺の御開帳は全国的にも名の知れた宗教行事として古くから定着している。ちなみに御開帳とは通常は厨子に入った状態で保管されている仏尊の扉を開き中が見える状態にすることだが、厨子の扉が完全に開いて目視できる状態を公開するのはごく希であり、わずかに厨子が開くだけで秘仏が露わになることはないようだ。

 さて、そんな善光寺は講として信仰を集めており市内にも江戸期の石碑が数基見られる。最初の石碑はそんな善光寺講に関係した新里・中里地区の旧岩泉街道沿いにある石碑だ。碑は中央に善光寺如来、右に天保六乙未年(きのとひつじ1835)、左に七月十四日、石工千□勘三労とあり、下部に中里、いせ、ミや、いし、ミや、さよ、まん、よわの連名がある。新里地区の善光寺関係の石碑は和井内地区の弘化三年(1846)のものをはじめ、次ぎに紹介する永田地区の駒形神社境内の石碑群の中にも見られ、江戸末期に盛んに善光寺詣りが行われた事が伺える。

 次の石碑は中里地区の隣である永田地区にある駒形神社境内の石碑だ。碑は上部に篆刻文字のような異字体で企神號碑とあり石碑建立にまつわる経緯が漢文が刻まれている。これを要約すると次のような事を伝えていることがわかる。明治28年(1895)外山御科牧場刈屋村の小山田栄次郎と相謀り駿馬を購入した。而して中里地区永田の放牧組合の藤村慶次郎の牡馬が奥羽6県の共進会において一等賞金杯を受賞、以来、地区では良馬を生産するため進歩したが、同43年(1910)受賞した牡馬が病死した。そこで大正4年(1915)組合では碑を建立しこれを讃え伝える。白井種徳・並書…。というような記述と読み取れる。

 取材で訪れた日はこの神社の縁日(旧3/20)の前日にあたり地区の老人たちが社殿を掃除していた。声をかけて祠を覗くと絵馬や優秀だった馬の写真額などが掲げられていた。話を聞くと往時、この地区では品評会、共進会で優秀な成績を残した馬も多かったことから神社の壁面には埋め尽くすほどの絵馬や額が飾られ縁日も賑やかだったと語ってくれた。鞘堂の中に収まる祠の中に仏像があったのでもしや馬頭観音かと思って見たが立った憤怒相の仏ではなく座した六臂の観音のようだった。

 次の石碑は中里地区の貴船神社境内にある変わった石碑だ。碑は左右に開いたハート型で、右部に安政六年未三月(1859)、左部に奉建立、上祢宜・藤原光信とあり、建立者が一風変わった石としてチョイスしたのだろう。この神社は近年改修がなされたらしく白木造りの中規模の社で、神社額には「貴布祢大明神」と書かれている。ちなみに石碑にある上祢宜(かみねぎ)はこの地区にある旧家の屋号だという。

 最後の石碑も中里の旧道沿いにある石碑群の中の一基だ。碑は中央に大山祇大神、猿田彦大神、右に明治三六年(1903)、左に十月十日、組合中とある。碑にある大山祇は山の神で森林と山から捕れるすべてのものを司る神で、猿田彦は日本神話において天孫降臨の先立ちをする神だ。碑は諸神の先立ちをする猿田彦にあやかって道開き、道供養を兼ねた道標として街道筋に建立されたものだろう。猿田彦は天狗の姿で表されることが多く、神社の祭礼において天宇受売命(アマノウズメノミコト・おかめ)と並んで御輿行列の先頭に立つ。また、神社名を染め抜いた祭りの幟旗の下の重りとして結びつける「くくり猿」も猿田彦の意匠だ。

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