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2009/03 瑞源山・善勝寺石碑巡禮

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 瑞源山・善勝寺の創建は、千徳氏の祖を土岐氏とするか、閉伊氏の分家とするかで諸説があり正確な寺歴の断定はできない。開祖は天産嘉舜和尚(てんさんかしゅん1395年頃)とされ津軽石の竜谷山・瑞雲寺の開祖と同一だ。大筋で語られる善勝寺の歴史は中世の時代、千徳氏の祖とされる、土岐氏の末裔がこの地に流れ先祖の菩提を弔うため千徳城の南西(千徳沢地区)に一宇を建立、後に手狭となったため土岐千徳氏である二郎善勝(じろうよしかつ)が現在の神田沢の地に寺を移転したものとされる。しかしながら閉伊地方の歴史上において千徳城をはじめ、土岐千徳氏、一戸千徳氏の詳細は未だ不明のままであり、従って善勝寺の創建も断定できないままなのは言うまでもない。

 その後、豊臣の時代となり閉伊の館や諸城は破却された。千徳氏(一戸氏)を駆逐した南部氏は千徳を桜庭氏に与え江戸初期から中期にかけて千徳の地は桜庭氏直轄の知行地となった。その後善勝寺はの宝暦10年(1760)六世・一山随円(いちざんずいえん)の代に火災に遭い焼失、江戸後期の八世・長全亮安(ちょうぜんりょうあん)の頃に復興し、以来約200年ほどが経過した本堂は昭和47年(1972)全面改築され現在に至る。(いわてのお寺さん)今月はそんな善勝寺の石碑を訪ね歩いた。

 門前に十数基の石碑が並ぶ善勝寺の参道だが、これらは千徳小学校、国道106号線、山田線改修などで移転してきたものが含まれ水神、西国順礼塔などが多い。その中で山門に向かって左側に二基の顕彰碑がある。まず最初の顕彰碑は千徳小学校の教師だった中屋氏の功績を称えたものだ。碑は中央に故中屋権治先生之碑とあり、台座正面に花崗岩の額がはめられ次の文面がある…。

碑文 故先生ハ小学校訓導トシテ千徳學校ニ職ヲ奉ズルコト實(じつ)ニ三十年其ノ間子弟ノ教養ニ将亦(しょうえき)青年教育ニ盡瘁(じんすい)セラレタル功績大ニ見ルベキモノアリ然ルニ昭和十四年二月三日教壇上ニオイテ忽焉(こつえん)トシテ逝ク茲(ここ)ニ同志相謀リ碑ヲ建テテ生前ノ徳ヲ慕ヒ併セテ其ノ霊ヲ慰ム昭和十六年八月三日

 これによると千徳小学校で明治・大正・昭和初期にわたり30年以上勤務した中屋権治という教師は授業中に教壇で倒れそのまま逝ったとあり、教え子たち有志が三回忌となった昭和16年(1941)に顕彰碑を建立したと考えられる。

 次の顕彰碑は山門下にあるもので、相田宗資(賢?)塚だこの碑の詳細は不明だがおそらく千徳の地で幕末から明治初期にかけて寺子屋か私塾を開いていた人物の顕彰碑と思われる。石碑右には明治丙子年(9年・1867)八月二十五日直之の行書があり、左には別の筆跡で次の文面がある…。

藤原姓栃内一学次男也、 始称元哲后(のち)改相田於、 千徳邨(むら)童蒙(どうもう) 為教師、門弟壹(いち)百有餘(よ)、一献香捧花争有不敬者哉、 文・□・書・落款(吉田某)

 漢文調なので読みにくいが、この人物は栃内(遠野か紫波)の藤原姓を名乗る一学という人の次男で、当初は元哲(げんてつ)と名乗ったが後に相田となった。千徳村の子供らのため教師となり門弟が100人もいた。この人物を偲び一献傾け香を捧げる…。というような意味と思われる。この碑はタイトル、年号、碑文が別々の書体であり年号は干支表記で難解な石碑のひとつだ。

 次の石碑は善勝寺の山門を潜り石段を登り切った左側にあるもので、中央に櫻庭家累代精霊とある。この石碑は千徳を統治していた桜庭氏を敬うために建てられたものだ。この石碑の経緯は明治時代まで毎年8月の16日に善勝寺の住職、千徳村の有力者らが正装し供え物を持参して桜庭氏の礼拝所として墓碑がある長根寺へ出向いていたが、これを簡略化するため大正時代に善勝寺境内に桜庭氏の石碑を建立したものだ。

 最後の石碑は碑ではなく山門脇に奉納された石灯籠だ。右側の灯籠には、明治三十五年(1902)一月、歩兵第五連隊雪中行軍中八甲田山付近□□□凍死、為、英山嶽良雄居士、陸軍歩兵一等卒、佐々木留吉、卒二十二歳とあり、左側の灯籠には、善勝哲量代、昭和6年(1931)七月七日、納人、千徳岩舩、佐々木馬之助、石工、吉田由太郎とある。この灯籠は当時の日本軍陸軍が対ロシア戦を見据えて行った厳寒地の冬期訓練による事故で亡くなった岩船出身の青年兵を追善供養するため肉親、あるいは親類らが奉納したものと考えられる。なにげない石灯籠だが刻まれた碑文を読むと様々な情景や因縁が浮かび上がって感慨深い。

 当時宮古・閉伊地方から兵隊に志願した人たちのほとんどは青森歩兵第五連隊配属が多く、八甲田雪中行軍の犠牲者はかなりおり、それに関係した供養碑も多い。

 ちなみに多大な損害と凍死者を出した陸軍最大の遭難事件・八甲田雪中行軍は皮肉なことに事件から2年後の明治37年(1904)に日露戦争として現実のものとなった。

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