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2008/04 蟇目地区街道石碑順禮

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 旧宮古市管内の石碑は昭和59年に宮古市教育委員会が刊行した『宮古市の石碑(いしぶみ)』を参考に散策する。しかしながらこの冊子が刊行されてから24年も経過しているから、都市計画による宅地開発や道路工事により何基かの石碑は動いている。旧田老町管内の石碑は平成2年に田老町教育委員会が刊行した『田老の古碑』を参考に散策する。だがこの冊子には地図がないため田老の字地名や基本的な土地勘がない僕にとっては猫に小判状態で、目当ての石碑を探す時は現地でかなりの人に聞きながら彷徨うことになる。旧新里村には、郷土史家として著書も多く、本誌にも執筆していた故・小島俊一氏が編集した新里村の石碑をまとめた冊子があるが、こちらは編集された時代が古く現存数も少なく入手も困難だ。

 市町村合併により宮古市が管轄管理する石碑もぐんと増えたため、宮古市教育委員会では新たな石碑関係の冊子を発行するため準備はしているらしが、旧宮古市管内だけでも未発見、未掲載のものが数多く見つかっており、地区やカテゴリー別に分類され編集段階に入るのはかなり先のことになるだろうと関係者は話している。

 そんな訳でこのコーナーでも旧新里村管内の石碑に関しては資料不足でまだまだ手探り状態だが、だからと言って鞭牛関係や円形に梵字を並べた有名な石碑を一通りやったら終わりと言う訳にはいかない。そこで今月は花原市から国道106号線と併走する旧道沿いに蟇目に入り蟇目地区の神社や古碑を巡ってみた。

 最初の石碑は華厳院前の踏切から旧国道106号線を蟇目方面へ向かった、蟇目と花原市の境界のトンネル前にある。この場所には(株)陸中建設の採石場があり、下にはJR山田線のトンネルがある。トンネルには宮古側の入口に「作見内」とペンキで表記されている。

 現在この旧道を通るのは採石場を行き来するトラックだけだが、現行の国道106号線から見ると車道・鉄道に2段のトンネルが並んで見えるユニークな景色だ。石碑は中央に道路供養、右に文政八年乙酉(1825きのととり)、左に十一月吉日、下部に引目、花原一、両村とある。古文書によって蟇目は「引目」「曳目」だったりすることから、花原市も「花原一」と略されている。地図によると蟇目村と花原市村の境は作見内トンネルを過ぎた次の沢付近で小さな水神の石宮がある。その昔、石碑があるトンネル付近は閉伊川が岩山にぶつかる難所で岩場の小峠は何度も普請され、その道を供養するために石碑が建立されたものだろう。

 次の石碑はさきほどの旧道から蟇目地区に入った所にある愛宕神社下の馬頭観音だ。この付近は丹敷屋敷と呼ばれ大きな豪農があったと伝えられている。ここから橋を渡れば蟇目村内に、沢沿いは「二又」地区で道は源兵衛平を経て刈屋方面へ抜けると言う。石碑は中央に馬頭観世音、右に文政三庚辰(1820かのえたつ)天(年)当村、左に四月吉日建立、下部右下に連名がある。

 次の石碑は旧蟇目村の村社だった加茂神社登り口にある3メートルほどの細長い変わった石碑だ。中央には奉祭祀千歳神霊標とあり、右側面に□社□□大同元年□草創、建立文化二乙丑(1806きのとうし)血□有志一同、蟇目村願主、石工玄之丞…などの文字が見えるが全体に彫りが荒く肉眼と手触りだけでは全文を読みとれない。しかし、これらの文字から予測すると、大同元年(806)に創建した京都の加茂神社が千年の時を経て、文化2年にそれを記念して千年祭の標柱を建立したと言う経緯が浮かんでくる。京都の加茂神社は京都市左京区にある賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と京都市北区の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)がある。どちらも平安時代に崇拝された官幣大社の筆頭であり、格は三重の伊勢神宮に次ぐという。蟇目の加茂神社はその末社で115段を越す石段の上に鎮座する社だ。藩政時代は加茂蟇目大明神と呼ばれ、田鎖洗馬という人が謹書した「加茂神社」の額が掲げられている。

 最後の石碑は蟇目地区村はずれにある明治期の新墓所登り口にある。中央には南無釈迦牟尼佛、左側面に明治四十三年(1910)七月十五日とある。台座には建立者として、山口、刈屋、佐々木、田鎖、大洞、宮藤など21名の連名があるが、名字の下のほとんどが土中に埋まっており名前の確認は難しい。  蟇目地区は個人持ちの神社も多くそれに伴って石碑も多いようだ。今回は街道沿いの石碑が中心だったが今後じっくり散策するのも面白そうだ。

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