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2007/04 動物の供養塔順禮

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 昭和42年は西暦で1967年だ。当時僕は小山田のあけぼの団地住まいの藤原小学校に通ってる小学校3年の9歳の少年だった。その頃の僕は冒険心も旺盛で年上の友達に連れられてよく対岸の舘合や長根あたりまで遠征して遊ぶこともあった。小山田から対岸へ渡るにはラサ工業が五月町の社宅から工場への通勤時間短縮のために設置した「仮橋」を渡って現在の宮古一中前の河原へ渡る。それから横山八幡宮の下を通り、現在の裁判所付近にあった小高い「ので山」の小径を通って一石様方面へ…というコースがいつものパターンだった。当時も一中の校庭にはフェンスがあってそこから中をのぞくといつも野球部が練習していて野手たちが「バッターバッター」とだみ声で叫んでいたのを思い出す。

 その頃横山八幡宮裏手というか、山口川河口(放水路)であり近内川河口が交わるあたりに屠殺場があって家畜の食肉処理がされていた。当時このあたり一帯は血生臭い屠殺場こそあったが、通称「八幡河原」と呼ばれ手つかずの中洲や芦原が広がる風光明媚な場所で、魚釣りには最適で晩秋の鮎のガラガケ名所でもあった。

 そんな折り昭和42年の8月22日に宮古下閉伊食肉処理組合では、近内川の上流である岩船地区に屠殺場を竣工(宮古の歩み)しており、これが後の宮古地区広域行政組合食肉処理場となる。屠殺場の移転は現在の宮町の都市開発に伴い衛生面と人の勝手な都合ではあるが倫理的面により、将来は商圏であり住宅地となる地域に食肉処理施設を置けないという理由だったと思われる。しかし、屠殺場移転によって長年にわたりそのおこぼれを狙っていたカラスが猛反撃を開始した。横山八幡宮の裏山を塒(ねぐら)にしていたカラスたちは餌場を失い一中の生徒たちに対して帽子を取るなどの攻撃をはじめたのであった。この攻撃に対して鳥獣駆除のハンターまで登場し、人間対カラスのイタチごっこは昭和45年頃まで続いたのであった。また、昭和48年には食肉処理場の排水による近内川汚染が問題となるなど、多くの問題を孕みながら近内川上流では食肉処理が近年まで続けられていた。

 今月はそんな遠い日の事件を思い出し、今はもう閉鎖された食肉処理場を訪ねることからはじっまった。

 現在のように外国から豊富に肉類が輸入される前は国産の食肉が流通しており、加えて精肉店による販売が主流だったので肉類の価格は魚より高価であり、僕ら世代は成長期において終始肉に飢えていた世代でもある。なのに近年肉類を含めあらゆる品物の流通形態は大きく変貌した。肉類はスーパーなどの量販店の主力商品となり地方処理では経費が単価に跳ね返ってしまい割高となり価格競争についてゆけない。そんな流通形態の中で昭和62年に処理能力を上げ新規開所した近内の食肉処理場も現在は閉鎖されている。施設内の最深部には石碑があり、おそらく屠殺された牛や豚の供養塔であると思われるが立ち入り禁止のためそれを調べることはできなかった。

 昭和59年、近内小学校が閉校し、近年は近内地区と西ヶ丘団地は合体してひとつの町を形成しようとしているが、近内薬師神社の参道であり蜂ヶ沢を経由して山口へと通じる街道筋は昔の近内のメイン通りであった。ここには多くの石碑が建ち並んでおり、その中に愛馬供養塔という石碑があった。石碑は黒の御影石で比較的新しいものだが、近内には宮古地区で最後まで馬を飼っていた農家や、現在は朽ち果てているが宮古市で唯一、現存する南部曲がり家もあることから馬との関わりは深い。碑は右に昭和四十三年建立(1968)、中央に愛馬供養塔、左に初穂主・伊藤吉助・部落二十六名・吉田石材店とある。

 次の石碑も近内にあるもので、近内から太田地区へ通じる坂本橋たもとの石碑群の中にある。碑はこちらも御影石で右に昭和五十九年十一月吉日(1984)、中央に鳥獣供養塔、左に功徳主・木村金実建立とある。木村金実という人物は故人だが狩猟が好きな人だったというからハンターとして多くの動物を手にかけた供養としてこの石碑を建立したと思われる。

 次の石碑は宮古山常安寺参道の石碑群にあるもので、家畜畜霊供養塔だ。この碑は昭和三十一年二月一日(1956)に建てられたもので、左に施主として田中泰助の名がある。この碑は常安寺にあるということと、比較的大きさも丁度よいためかペットの供養として多くの人に拝まれているらしく、生前使っていたと思われるペット用品などが供えられている。

 最後の石碑は港町宮古ならではのちょと変わった供養塔だ。碑は角力浜の浄土ヶ浜へ向かう坂道から右に折れた先端にある龍神崎にあるもので、漁獲した魚を供養するための魚霊塔だ。碑は御影石を横にした形で、右に宮古市長千田眞一書とあり、中央に魚霊塔、下部に宮古漁業協同組合昭和57年1月吉日(1982)4代組合長理事・長澤永榮次郎建立とある。

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