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駒井梅甫

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  • こまいばいほ【分類・俳人】
  • 江戸~明治:文化13年~明治28年(1816~1895)

宮古の俳人星野文冥の弟、駒井梅甫

藩政時代の宮古の俳人として著名な星野文冥の弟で、江戸期の宮古代官所給人であった小沢の屋号・近吉こと駒井家に養子として入ったのが駒井吉郎兵衛だ。吉郎兵衛は文化13年(1816)、星野文之助の次男として生まれ、後に駒井家に入ったという。当初、判治と名乗ったが後に吉郎兵衛と称し俳号を梅甫(ばいほ)と名乗った。兄の文冥は早くから俳人、書家として知られていたが、梅甫こと吉郎兵衛は代官所給人として多忙であり俳句や書とは無縁に暮らしていたが、40歳を過ぎた頃、兄の文冥にその悪筆をけなされ一念発起し書に取り組み、俳句を学び晩年にその才能を開花させ、流麗な書でしたためた句は現在も駒井家に残されている。
駒井家は近江の国の出で、南部藩に仕えた給人の家柄だ。宝暦・享保期の宮古地方きっての儒学者・駒井常爾とは一族関係でその系譜は近江の本家筋でつながっているという。梅甫の句は辞世句として墓碑裏面に刻まれており、その書は大胆で力強いく、右側面には明治二十八年(1895)五月三十一日没とある。句は次の通り。

  • 遠いぬれ者 夜の みじ可きも  面白し
  • 読み・おいぬれば よるの みじかきも おもしろし

明治29年(1896)岩手県会議員に当選した駒井宇八郎は、梅甫の孫にあたり、宇八郎の三男が新里宝鏡院に鞭牛の石像などを建立した駒井才吉、そして才吉の長男が宮古市議会議員であり剣道の尚志館道場主だった故・駒井啓三氏になる。

宮古代官所給人・駒井家と親鸞の黒仏

浄土真宗の開祖・親鸞上人の御影とされるこの仏は、その色から「黒仏」と呼ばれ、駒井家に伝わる信仰仏であった。一説によると駒井家が本国近江の国(滋賀県)に在住の頃、先祖が京都の仏具店に飾られてあった仏像に目を止め、何か因縁があるものと感じこの仏を買い求めたという。その後この仏のご加護で商売も繁盛し廻船事業では遭難や破船などに遭わずに済んだのだと伝えられてきた。また、この仏像は盛岡の本誓寺の本尊と同体同作であり三体ある同御影の一体とされる。
しかし、大切に伝えられてきた門外不出の秘仏は嘉永元年(1848)駒井惣兵衛の代に盛岡の願教寺へ献上される。これは『内史略』によれば南部藩による願教寺再興にあたり、駒井家が「黒仏」を献上している。この経緯については諸説あるが、まず駒井家の本国・近江の国では浄土真宗が盛んであり、南部藩に対して親鸞御影像が外部へ持ち出されたことについて捜索依頼がきており、宮古の駒井家に安置されていることが判明。これを藩では買い上げる旨を申し出たが駒井家ではこれを拒否し続けていた。しかし願教寺再興などの慶事に際し南部藩給人でもあった駒井惣兵衛は苦渋の選択で秘仏を献上したものと考えられる。
このことに関係する古文書は天保3年(1832)駒井惣兵衛が金50両を寸志として藩に献上したこと、嘉永元年、駒井惣兵衛が親鸞御影を献上し禄が30石増えたこと、これに伴い知行地を宮古から大迫・達曽部へ転居せよという南部藩の意向に対し、これまで通り宮古住まいを希望する陳情書の3編が発見されている。
駒井家の信仰仏から願教寺の秘仏となった親鸞上人御影は現在も願教寺に安置され、年に数回のご開帳の日のみに見ることができるという。

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