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鍬ヶ崎哀歌VOL3

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目次

芸者・花香と春千代のアルバムから当時の鍬ヶ崎を振り返る

大正から昭和初期の鍬ヶ崎花柳界

 鍬ヶ崎が花街として文化を育んだ時代がありました。それは江戸末期から明治を経て成長し大正・昭和初期に全盛期を迎えました。その頃、鍬ヶ崎上町界隈には遊郭や料理屋が軒を並べ、遊郭の格子から張見世する遊女たち、いくつものお座敷を掛け持つ着飾った半玉や粋な芸者が闊歩する風景が日常でした。毎夜繰り広げられる宴は、空が白むまで続き三味線や太鼓の音が通りに響いていたのでした。沖の定置網にはマグロが入りイワシは大漁で全国から仲買や買い人が詰めかけました。仲町の桟橋には北海道、塩釜、東京を結ぶ三陸定期汽船が就航していたその時代、鍬ヶ崎こそが宮古の玄関口であり、芸者たちは花街を彩る華だったのです。

最後の鍬ヶ崎芸妓世代だった春千代

 春千代は旧田老町に生まれ、小学校三年の時に三陸大津波を体験した。被災した春千代はこれを期に親戚だった鍬ヶ崎上町で遊郭と料理屋を経営していた松月楼へ身を寄せた。新天地となった鍬ヶ崎で春千代の目に入ったのは美しい着物で着飾り松月楼のお座敷に上がる半玉や芸者たちだった。その艶やかさに憧れたと同時に、親戚の娘らも全員半玉であったことから春千代も自然に芸妓への道を歩むことになる。しかし、芸妓修行は通常6歳頃とされており、春千代が修行をはじめたのはかなり遅くその修行は厳しいものだったという。

 そんな春千代が半玉から一人前の芸妓として一本立ちしたのは昭和10年(1935)。すでに戦争の足音はすぐそこまできており、春千代の世代の芸妓たちは鍬ヶ崎の料理屋のお座敷だけでなく、一般家庭での出征兵士を送る送別会、出征する同級生を囲んだクラス会などにも呼ばれた。これらの宴会は『立ち振る舞い』と称され、春千代たちは呼ばれた家の玄関で「この度はおめでとうございます」と告げた。家では「これが最後になるかも知れないから賑やかにやってほしい」と涙ながらに頼まれたという。宴会が終わる頃になると写真屋を呼んで記念写真を撮った。春千代たちは幾つもの立ち振る舞いの宴で写真に加わったが終戦後帰ってこなかった人も大勢いた。

 戦時色が濃くなると髪を結うのは贅沢だと言われ芸妓たちも日本髪を結わなくなった。そして芸者をあげて遊ぶことは贅沢とされ鍬ヶ崎の遊興も減った。そのうち三味線、太鼓の鳴り物が禁止となり、灯火管制、そして最後には酒もなくなった。その頃は春千代も慣れない手つきでミシンを踏んだ。しかしそれも布がなくなり長くは続かず終戦を迎えた。

 昭和20年(1945)8月、終戦と同時に経済混乱の時代が到来した。芸妓たちは浄土ヶ浜・旭会館に進駐していたGHQの前で大漁踊を披露することもあった。そして春千代たちはいつかまたお座敷に出られる日が来ると信じていた。だが、戦後の教育制度改革をはじめ娯楽の大きな変化により、細々と経営を続けていた鍬ヶ崎の料理屋は一軒、また一軒とのれんを降ろした。

 戦後に再興するはずだった鍬ヶ崎花柳界の灯は以前のように輝くことはなかった。そんな情勢の変化と時代の流れを最後の鍬ヶ崎芸妓世代であった春千代たちは受け入れざるを得なかったのである。昭和23年(1948)春千代は結婚。動乱の時代、芸一筋で生きた芸妓人生にピリオドを打った。


遊里。鍬ヶ崎のアウトライン

 鍬ヶ崎上町に廓が発生したのは江戸中期から末期頃と考えられる。当時この界隈で廓を経営していたのは相馬から流れてきた商人であったと伝えられるが、規模や詳細など詳しいことはわかっていない。

 戊申戦争を経て明治期になると鍬ヶ崎町は海上輸送の中継地点、同時に漁港、歓楽街として、のちに合併する隣の宮古町を凌ぐ勢いで発展してゆく。海上輸送の要として汽船が長距離交通の手段になると、明治41年(1908)北海道~宮古、塩釜~宮古を結ぶ三陸定汽船が就航する。この頃、現在の国道106号線である宮古~盛岡間は片道馬車で三日もかかる難所であり、鉄道が整備されるまでは牛馬こそ行き来したが一般人が徒歩で移動するには未整備で危険な街道であった。 鍬ヶ崎から北海道、塩釜、東京へと拓かれた新しい海路からは、物と同時に海産物の買い付けなどの商人、そして旅行者も多く行き来するようになる。この頃になると鍬ヶ崎の遊郭は江戸末期からの古い経営体型から新しい組合方式へと進化していく。この組織の中心になったのは鍬ヶ崎で一二を争う格式のあった料理屋・相馬屋、旭屋であった。こうした実力ある経営者たちが中心となって設立した「鍬ヶ崎遊芸組合」は、販促としてブロマイドや絵はがきを作製し、芸妓を管理割り振りする箱番(函番・検番)として第二次世界大戦直後まで存続している。

美しく短かった芸妓・花香の生涯

 芸者・花香は明治に生まれ、鍬ヶ崎花柳界が最も隆盛を極めたとされる大正時代に一人前の芸妓として一本立ちした。その容姿は淡麗で美しく鍬ヶ崎の演芸場でもあった有楽座の入口に古参芸者と並んで名入りの看板が掲げられるほどの人気だった。また、当時のローカル冊子『都鍬案内』などにもその名が掲載されるなどこの時代の鍬ヶ崎の売れっ子芸妓であったと思われる。

 花香は少女時代鍬ヶ崎上町にあった宮喜楼に身を寄せ、当時の芸妓と同じように6歳頃から修行をはじめ、15歳で半玉としてお座敷にあがり18歳で一本立ちした。花香の均整の取れた顔立ちは半玉時代から人気で一本立ちするとたちまち人気芸者となった。

 花香は花街である鍬ヶ崎上町で青春時代を過ごし、そして女になっていった。残された写真でも判るように大きな瞳と、均整のとれた面影でカメラに向かうその仕草は少女と思えないほどの魅力を生まれながらにもっていた。しかし、花香は一本立ちしてその人気で名を馳せたが、時代が昭和に入る頃その名は花街の噂とともにいつしか消えてしまう。結婚したのか病気だったのか…。花香の消息は不明のままアルバムだけが残されている。

独特の建築様式を今に残す遊郭跡

更科楼

 更科楼は光岸地を経て鍬ヶ崎上町の入口にある遊郭跡だ。更科楼が遊郭として稼働した頃は鍬ヶ崎と光岸地は由ヶ尻という岬で遮断されており、鍬ヶ崎花街に入る客のほとんどは上の山(常安寺分院)から夏保峠を経て往来していた。大正末期になり宮古町・鍬ヶ崎町が合併したあたりに、埋立と同時に光岸地~鍬ヶ崎を結ぶ切り通し(現・漁協ビル付近)が完成し現在のような往来となった。当初の更科楼は、花街鍬ヶ崎上町の西側の行き止まりに建っており、周辺には更科楼の他豊岡楼、大正楼などの遊郭が軒を並べる廓街の中にあった。

 更科楼の正確な発生年代は不明だが、火災、立ち退きなどで何度か移転を繰り返し現在の位置にその姿を残している。昭和6年(1931)の鍬ヶ崎の地図を見ると更科楼は、最近撤去されたラサ工業田老鉱山鉱石集積所の位置にあったようだ。その後、田老鉱山稼働に伴い、集積所の建設で更科楼は上町の臨港通りへ抜ける道を挟んで反対側に移転したものと思われる。その経緯や位置取り、日付などは不明だ。

 更科楼が移転した場所には昭和6年の地図ではレストランがあったがこの店がどこへ移転したかも判らない。更科楼が移転し営業を始めると西側の隣に、いろは楼、福島屋という二軒の遊郭が開業している。これらの店が更科楼のように田老鉱山鉱石集積所建設のため移転し名前を変更したのか、新たに開業したのかは不明だが、両店とも戦後には閉店したようで現在は取り壊され別の建物になっている。

 更科楼の正面玄関は上町の通りに面しており、入口に向かって右側が遊女たちが張見世をした部屋だ。移転した後期の更科楼では通りに向かって張見世はせず、玄関に入って右の部屋のガラス戸を開けて張見世をしていたという。その部屋は床から1メートルほど高いひな壇になっており5~7人の遊女が並び客がなじみを選んだ。客は好みの遊女の名を店に伝えると二階の顔見部屋に通された。ここで客と遊女は顔見せしそれぞれの部屋へ通された。更科楼の遊女はほとんどが部屋持ちで客は通された部屋で料理や酒を飲むこともできた。部屋は俗に、遊女が客を取り替えて営業することから廻し部屋と呼ばれ、広さは四畳半ほどの小部屋だ。更科楼の二階は二本の廊下があり、東側に三部屋、西側に三部屋、中央に台所を含めた三部屋があり廻し部屋は八間、顔見せや宴会に使う部屋が二間という設計だ。一階から二階に上がる階段の幅は一間半(270センチ)もあり、客、遊女、仲居が楽にすれ違える広さだ。また、上がり降りの階段は玄関右と突き当たりの二ヵ所があり、これから登楼する客と帰る客が顔を合わせない工夫がなされている。

 更科楼の営業は戦後も続いたが昭和33年、売春禁止法制定後そののれんを降ろし現在に至る。(記事は2010年当時。現在は東日本大震災で倒壊、解体撤去となった)

鍬浦銘菓数あれど元祖水新練り羊羹の右に出るものなし

 元祖・水新の練り羊羹は文化6年(1809)に水上新七という菓子職人が製造したのがはじまりで、初代・新七、新六、三代目新七と四代まで鍬ヶ崎で羊羹をはじめ生菓子、らくがんなどを製造した。水新の練り羊羹は鍬ヶ崎の料亭、料理屋のお座敷でお通しとして出される菓子であり、庶民の口に入るお菓子ではなかったようだ。

 大正11年(1922)岩手日報社が県産品人気投票という企画を行い岩手県の人気特産品を発表した。その記事の中に宮古での人気菓子の第一位に、鍬ヶ崎下町鯛屋商店が製造販売していた「鰹せんべい」と鍬ヶ崎水新の「練り羊羹」があり、どちらも8000票台の人気であったという。この時代は宮古の玄関口は三陸定期汽船が発着する鍬ヶ崎であり、仙台方面へ出る人たちは必ずと言っていいほど、鯛屋の鰹せんべいか水新の羊羹を手土産にしたという。また、当時隆盛を極めた鍬ヶ崎花柳界の芸妓たちが進物に使う菓子のほとんどが水新の練り羊羹だったという。

 羊羹は日持ちする菓子で水上の練り羊羹は一年経っても口の中でとろけると評判だった。ちなみに営業当時、水上家は「すごべぇ様」の屋号で呼ばれた。これは「凄く旨い」という客の評判が元になって屋号となったものだという。

水上羊羹の掛け紙

 今回掲載した掛け紙は昭和初期まで使われていた水上菓子店で使われていたもので、水上家の蔵を解体した時(昭和63年)に見つかったものだ。掛け紙には波間を飛ぶカモメ、早池峰山と思われる雪を載せた山、丸窓には当時の鍬ヶ崎の象徴でもあった龍神崎の袴島、浄土ヶ浜が宮古名所として描かれている。この掛け紙と一緒に大量の生菓子用の菓子型、先代の職人が図案彩色したと思われるお菓子の図案帳などが見つかった。

旅芸人や芸妓たちが立った鍬ヶ崎の常設舞台・有楽座

 旭屋、玉川、開清庵などの料理屋が狭い坂道に軒を並べた、上ノ山(常安寺分院)の坂を下ると上町に往来に交差した。そこから海側へ進んだ表通りに交差したところに、有楽座という芝居小屋を兼ねた小さな舞台があった。ここでは祭などで訪れた旅芸人の芝居や、義太夫、鍬ヶ崎芸妓たちの発表会や半玉たちのおさらい会が行われた。入口上にはその時代の一本芸妓の名前をかいた大看板が人気順に掲げてあり、遊郭が軒を並べる上町の往来とは違う華やかさがあった。有楽座の横には鍬ヶ崎遊芸組合の事務所が併設していた。晩年有楽座の権利は様々な人の手に渡り現在は通りに面した部分は漁具店の店舗として使われている。(当時の写真は16頁参照)

高台の料理屋からは出舟入舟が一望できた・料亭・たいら松

 大正末期から昭和初期、上ノ山から金比羅神社へ向かう高台にアカマツの老木が枝を伸ばし鍬ヶ崎から宮古湾が一望できる場所に、二間ほどの部屋しかない小さな料理屋・平松があった。平松は上ノ山、道又沢、夏保峠からの小径が交差する場所で、大勢の宴会で盛り上がるというより、芸妓と旦那衆がひっそりと逢う隠れ家のような存在だった。

 平松が上町に存在した料理屋の支店であったか、独自に店舗として単独に存在したかは不明だ。なお、平松跡地、金比羅神社は現在個人敷地内でありむやみに侵入できない。また、敷地内にあった金比羅神社は昨年御神体を熊野神社(おくまん様)に統合し、かつての社は取り壊されている。

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