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金沢金山

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目次

金の沢という地名が物語る金沢と金山との関係

中世の時代から南部藩政時代を経て、昭和初期まで稼働したのが上閉伊郡大槌町の金沢の金山だ。金沢はその地名が示すとおり、奥州藤原氏の時代より以前から初歩的な砂金採りで産金してきたと考えられ、地名の由来も金の採れる沢からきているという。古い記録等は残ってはいないが金沢周辺では俘囚の長として安倍氏が陸奥を治めていた頃から盛んに産金し、前九年の役後三年の役を経て清原氏に代わり権力を得た奥州藤原四代による黄金文化にも金沢の砂金が供出されたのではないかと考えられている。その後、南部藩の時代になり原始的な砂金採りから直接坑道を掘り山から採掘した鉱石を製錬する鉱業開発へと移り変わってゆく。
これらの鉱山は山師など専門技術がある人々によって選定され試し堀りのあと結果が得られると、山師は採掘権を南部藩へ申請し産出高を予測して運上金を支払い3ヶ月、6ヶ月などと期限を決めて採掘した。金沢の水保呂(みずほろ)金山は江戸初期の正保元年(1644)に遠野の御山奉行が管理し稼働した記録があるというが、これは金山の内容を詳しく記載したものではなく、たまたまこの金山で働く鉱夫たちが食べる米を仕入れていた記録があっただけであり、藩政時代にかかわらず金山の内容は文書などに記録されず秘密裏に採掘され、山中に建てられた採掘場などの家屋は寂れれば人知れず朽ち果てるだけだったようだ。

金沢金山の長者伝説

江戸中期の享保2年(1717)になると小友村の山師・山崎左衛門という人が金沢村の鷹野巣山峠周辺を調査し過去に掘られてそのまま放置された坑道などから有望な金鉱を発見し金沢村の産金が盛期となる。また、この頃に後の「金山長者」として大槌町の伝説となる「左京」「左近」も登場する。伝説によるとその昔、金沢村に左京あるいは左近という金山師がおりたいそうな金を掘り当てて豪勢な暮らしをしたという。この人物が「折合(おりあわせ)」という地区の山中に黄金を埋蔵したという。また、「種戸口(たねとぐち)」には左京の墓碑がありその周辺にはやはり金が埋められているという伝説がある。また、この人物は災害による橋の流失などの架け替え工事等、村の普請にも出費したと伝えられ成功者として語り継がれてきたものだろう。

不気味な口をあけたまま佇むかつての金山坑道

国道45号線大槌から土坂峠を経て小国へ出る県道26号線に入りしばらく走ると金沢地区に着く。この土地は北西に長者森(1010・5m)、白見山(1172・6m)、北東に鳥古ノ森(850m)などに囲まれた山間の盆地で藩政時代には金山として栄えた記録があり、多くの坑道から鉱石が掘り出され、昭和16年まで民間企業による金山事務所があったという。
現在残された坑道は吹棚森(562m)から流れる沢沿いにある「大切坑」で、周辺は現在、平場となって建物などはないものの砂場金精錬所跡、飯場長屋跡、金山事務所跡、水車場跡などが残る。また、坑道に続く「さわがみ沢」には金山水路跡の石組みや石碑などが見られる。沢を登り極端に道幅が狭い山道をゆくと右手の崖に開いた真っ黒い穴「大切坑」に着く。入り口は長い月日で土砂が入り込んでおり間口は低く高さ1メートルほどだ。坑道下の小さな沢には番所跡と発破用の火薬庫跡があり、山腹に山の神の石碑があるというがこれは発見できなかった。
坑道は戦前頃までは稼働していたものと思われるが、どの程度の規模と総延長があるのかは不明だ。また、この坑道より数百メートル登った場所に「万歳坑」という別の坑道もあるがこちらは落石で入り口がふさがれたままになっている。

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地図

https://goo.gl/maps/vLpzZ

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