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野沢孝一

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70歳で思い出の唄120曲を吹き込む果たせなかった歌手への夢

 はりきゅう・マッサージ師としての仕事の傍ら、宮古なつめろ愛好会の会長として長きに渡って音楽を愛好し続けてきたのが野沢さんだ。若き日の戦後、宮古の大衆音楽をリードしてきた一人でもあるが、その背景には果たせなかったひとつの夢があった。

 野沢さんは幼くして視力障害者だった。県立盲学校にて学び、はりきゅう・マッサージ師の道へと進む。そんな野沢さんは小さい頃から音楽が好きだった。戦時中に盲学校を卒業後、はりきゅう治療院を開業。一方では好きな音楽を独学で学んでいた。

 その音楽の活動は目覚ましく昭和21(1946)年11月、岩手県芸能大会に出場。見事な歌を披露し県知事賞を獲得した。同年12月には、NHKラジオ宮古放送局開局記念の音楽会が愛宕小学校で開かれ、それに出演し歌が電波に流れるなど、仕事の傍ら音楽も精力的に活動していた。

 そんなある日の昭和22年頃、ポリドールレコードの歌手募集の案内を知った。戦争で多くのいのちが奪われ、歌手たちも戦火へと散った時代。各社は終戦と同時に再開に向けての道を模索し、新時代向けの流行歌にも力を入れ、新人歌手募集も行い業界を挙げて復興への道を邁進していた。

 「視力が悪い自分にとって生きる道はマッサージ師か芸能しかない」との思いが強かった野沢さんは早速、その歌手の試験を受けた。応募には約300人が集まり、そこでいろいろ審査が行われた。音楽の知識の試験や譜面を渡され歌わされたりした。そんな中、野沢さんは見事に最終12人に残り合格となり歌手として採用された。その成績は上位三番目だった。「当時は譜面を見て歌える人はそう多くは無かった。合格は本当に嬉しかった」と当時を振り返る。


歌手への道を断念地元での音楽活動に専念

 独学でやってきたのが身を結び、新たな人生のスタートの始まりとなったが、しかし、夢はもろくも破れ去った。「身体を患ってしまい、その歌手を断念せざるを得なかった」のだ。

 まだ一枚のレコードも出せぬまま、再びはり治療の仕事に専念。しかし、音楽への夢と情熱は尽きることはなかった。22年(1947)の大晦日にはNHKラジオの年忘れ音楽会に出場し、東北地方にその美声を響かせた。以来、宮古地域や県内各地での音楽会に引っ張りだことなり、戦後の大衆娯楽を音楽分野でにぎわせてきた。歌のほかバンド活動も行い、同24年(1949)にはNHK素人のど自慢の審査員もした。この時はジャズピアニスト本田竹広氏の父で当時宮古高校音楽教諭だった本田幸八氏も一緒だった。同25年には本誌創始者の駒井雅三が作詞した「三陸観光音頭」の作曲募集が行われ、全国から寄せられた曲を一曲ずつ歌い審査に当たった。

 こうした時代を経て、昭和50(1975)年代頃まで様々な音楽活動を行い、その後はなつめろカラオケクラブなどでも活動。もちろん仕事でも活躍し、奉仕活動も精力的に行い数々の表彰も受けて来た。

 その間、70歳の古希を記念し、自分の歩んだ記録を歌で残すことを決意。「果たせなかった青春の夢を思い起こし、何か残さねば」と、過ぎ去りし青春時代の歌120曲をテープに残した。吹き込んだテープには時代の世相を反映した流れるような口調でのナレーションも吹き込まれている。

 現在、自営する治療院は三年前に辞めているが、その美声は未だ衰えることはない。

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