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篠民三

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  • そのたみぞう【分類・実業家】
  • 江戸~明治:天保14年~明治43年(1843~1910)

閉伊川河口埋立工事でまちづくりを始動させた元代議士

篠民三は閉伊川の埋立や製氷事業で成功した人物で、近世宮古のまちづくりを語る上で忘れてはならない人だ。日本全国の実業人を総覧した「実業人傑伝」(明治28年発行)において「奥羽に冠たる者」と称された人物でもある。しかし、彼に関する研究は少なくその資料さえも残っていない。
民三は天保14年(1843)、鍬ヶ崎の医師徳三郎の長男として生まれた。幼い頃から豪放磊落で、成人すると、武芸を学び、北海道など各地へ流浪の旅に出かけ、旅先では漁師になったり船漕ぎになったりと苦労を重ねてきた。明治8年(1875)頃、鍬ヶ崎に帰ってきて、北海道での見聞からヒントを得て、製氷事業を計画した。閉伊川の水質を調べ金を集め事業をスタートさせた。しかし、この時代消費地東京までの流通ルートがなかったため民三は宮古湾内に停泊している汽船「秋津州丸」に乗り込んで、船長に凍氷の積込み、運搬を頼み込んだ。ほとんど実績がない民三だったにもかかわらず、うまく船長に快諾させ東京までの運搬ができるようになった。
こうして民三は製氷移出事業を成功させ、巨万の富を得て、東北地方での製氷移出事業の先駆けとなった。その後漁業にも手腕を奮い、明治12年(1879)に菊池一族らと行った閉伊川左岸埋立工事(現在の築地~光岸地)で最も民三の手腕が発揮された。 現在のNTTや東北電力がある場所はかつて「七戻り」と呼ばれた交通の難所で、山側まで河口が入り込んでいた。水揚げされた魚を船で市街地に運ぶのにも手間がかかることから埋立を計画。山を削り、岩を砕き、広い海岸を埋立する工事に、難色をしめす事業家30人を説得し、2年3ヵ月、工事費56200円を費やして完成させた。埋立面積58100平方メートル。現在の新川町、築地通り、光岸地、切り通し一帯がそれである。
民三はその後、町会議員、郡会議員、県会議員などを歴任したほか明治34(1901)年5月衆議院議員に当選。当地方初の代議士となった。地方自治に貢献すること約30年、同43年(1910)8月病気のため68歳で亡くなるまで、当地方発展に大きく寄与した。民三の墓は、宮古測候所の真下に位置する場所にあり「元代議士篠民三大人之墓」と刻まれている。

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