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異人船騒動記

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重茂のホルワルド・ホー号騒動

時代が明治となって14年、既に近代化への道を歩みはじめた日本に、思いがけぬ外交事件が発生した。それもこの宮古・重茂の浜での出来事だった。イギリス商船の重茂半島への漂着が発端となった「ホルワルド・ホー号漂着事件」である。
神戸からイギリスへの帰途、アメリカに向かっていたホルワルド・ホー号は、三陸沖で明治14年10月31日と、11月20日の暴風に遭遇、帆がことごとく吹き飛ばされ、甲板が傾き、転覆寸前の状態で重茂沖に停泊していた。11月28日なるとついに力尽き、重茂港への漂着を試みたが座礁。漁をしていた漁民に助けを求めた。重茂村や音部村の漁民は要請に応えて、乗組員26人と積み荷のすべてを重茂村里部落の浜に陸揚げした。そして乗組員を民家に収容し、手厚くもてなしたのである。
村民との交渉は同乗していた日本人通訳の緒方富五郎が当たった。村では米飯などでもてなすが、食料は充分ではなかった。そのため4日後の12月2日、乗組員はすべて浦鍬ヶ崎村に移送される。別れに際し、乗組員は救助やもてなしのお礼として、時計やカップ、ビスコイト(ビスケット)、寒暖計など当時の日本では貴重な品物を贈った。しかし、これがのちに大問題になった。
浦鍬ヶ崎に移送された乗組員は数軒の民家に分宿し、半月余りをこの地で過ごした。12月17日、彼らは便船の住ノ江丸で横浜に送還される。彼らは村民の歓待に感謝し、一人ひとりに握手して別れた。重茂半島の漂着事件は、こうして両国間の美談として終わるはずだった。ところが半年後、思わぬ外交問題となってしまった。
横浜の英字新聞「ジャパン・デーリー・メール」と「ウィキリー・メール」が12月28日付けと31日付の紙面に「日本人が船ノ積荷ヲ横領シ、船員をイジメ、法外ナ経費ヲトッタ」などとセンセーショナルな報道をした。重茂と浦鍬ヶ崎の美談は横浜では醜聞に変わってしまった。英国領事館はすぐに外務大臣井上馨に直々に厳重な抗議と調査を申し入れた。調査は現地で行われ、一人一人から事情聴取し、救出から沈没の状況まで詳しく調べたが、略奪の事実は現れてこなかった。
英字新聞の誤報だった。調査は事なきをえて真相が解明されたが、滞在した村の食事や宿泊などは母国とはかなりの差があり、風習、言葉などの違いからどこかで誤解、曲解されての報道となった。当時のイギリスの日本観がどこか野蛮な非文明国という意識が根底にあったのであろう。
この事件を語るものとして宮古市民会館には、ホ号で使用されていた点鐘が保存されている。金属製で高さ30センチ「海の魔女(水の妖精)Water Witch 1855 アムステルダム製」と刻まれている。

山田湾に黒船入港。金銀島探検のオランダ船に騒動

1643年(寛永20)7月、今から360年前。山田湾に一隻の黒船が漂着した。オランダから金銀島探検に来たブレスケンス号である。生まれて初めて見る黒い外国船に小さな漁村は大騒ぎとなった。彼らの目的は、当時日本近海東方海上に存在するものと想像された金銀島探検のためであった。マルコポーロの「東方見聞録」の、金の屋根と床とで出来ている日本の宮殿の魅力は東方探検の夢をかきたてた。
ブレスケンス号は、オランダ東インド会社の命令によってカストリクム号とともに、日本の海岸線に沿って進んでいた。ところが暴風や濃霧などの悪天候により、2隻ははぐれてしまい、ブレスケンス号は水や食料を求めて山田湾へと入港した。当時は徳川幕府の鎖国の時代。突然の黒船来訪に住民はもとより南部藩、幕府も驚き、大騒動となった。結局、船長等10人が役人に捕らえられて連行。その後、江戸でも取り調べを受け、その結果、鎖国当時でもあった国交のあったオランダから来たことが理解され、この年の暮れには釈放された。
記録によるとブレスケンス号はその年の6月10日と、7月28日に山田湾に入港している。1回目は水を補給。地元民に歓待されながらも出帆。2回目の際は水、食料補給のため上陸したところを捕らえられたのである。
2回目に山田湾に入港、碇泊した場所は大島付近で、船員がこの島に渡り飲料水を汲んだ。この時に古井戸が今も残っているという。さらにここの弁財天祠堂の樫の木に、「和蘭陀船入津の際、刃物にて彫りたると称する、横文字の痕跡があるが、字形が判然としない」(郷土史研究遺稿集)とある。
そのことから昭和39年、大島をオランダ島と命名したのである。ブレスケンス号の乗組員は、60人で、ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハーブ船長(33)、ウィルレム・ベイルフェルト下級商務員(24)、ジーウェルト・ヤンセン・メス賄方兼下士(33)、ビーテル・ヘリッツゾーン桶匠(26)、ヘンドリック・ファン・エンスフォルト砲手(27)、アブラハム・ビーテルセン・スペルト砲手(22)、ハンス・スレー水夫(20)、ヤコブ・ド・パウ給仕(14)、アールト・パスティアンスゾーン給仕(15)が南部藩によって捕らえられ、そのほかの乗組員は次の通りだった。舵手3人、筆者2人、薬師2人、砲手2人、碇役2人、水主頭1人、水・酒役2人、給仕4人、前はたうち2人、帆ぬい2人、舵取り1人、水主27人。

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