Miyape ban 01.jpg

横山八幡宮記

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

郷土史家・佐々木勝三による横山八幡宮縁起

『横山八幡宮記』は後に『義経は生きていた・義経北行伝説』を執筆した、宮古の郷土史家・佐々木勝三によって昭和40年代に刊行された、横山八幡宮にまつわる歴史や伝説をまとめた冊子だ。これによると横山八幡神社は神社としての創建は不明としながら、江戸時代に神社復興に努めた鍬ヶ崎の近藤茂左右衛門の記載がある。近藤氏は衰退する横山八幡宮を憂えて、宮古の漢学者・高橋子績に「横山八幡宮縁記」を執筆依頼、これを持参し京都の吉田神道の門を潜り神官の地位を獲得して帰郷したとしている。
吉田神道は室町末期の思想家・吉田兼倶(かねとも)を創始者とする神道で、大陸から伝わった仏教、儒教の影響を受けずに固有の思想で継承したとされる。吉田家は古くから占いを司ってきた卜部(うらべ)氏の末裔であり、政治的策略に長けた兼倶は応仁の乱後、荒廃した神社を再興した。江戸時代になると京都の吉田神社は総本山的地位を得て当時の神道界をリードし幕末まで全国から信仰された。
宮古の茂左衛門が横山八幡宮再興のために吉田神道を選んだのはそんなステイタスも含めた選択であったろう。茂左衛門が吉田神道の官位を得たことにより横山八幡宮は吉田神道一派の末席にその名を刻み確かに社格が上がったことになる。この時、茂左衛門が吉田神社に持参した文書は子績が執筆した『横山八幡宮縁記』であり、これに寛弘年間(1004~1012)の阿波国鳴門の異常を和歌で鎮め、褒美として時の一条天皇から都と同音の「宮古」の地名を賜ったという横山八幡宮の神官の逸話がある。
茂左右衛門が京都の吉田神道を訪ねた年代は『横山八幡宮記』では徳川の頃とするだけで明確な時代設定はされていないがこれらの記述は子績が沢内村から宮古に戻った明和7年(1770~)頃に執筆されたと考えられ、文武の思想が日本中に浸透した時代であり、荒廃する横山八幡宮の社格を一気に上げるため子績は全国各地に伝わる逸話を計画的に組み込んだのではないか、とも考えられる。

関連事項

表示
個人用ツール