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本田竹広

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  • ほんだたけひろ【分類・音楽】
  • 昭和~平成:昭和20年~平成18年(1945~2006)

目次

破壊と抒情のジャズピアニスト逝く

日本を代表するジャズメンでジャズイン浄土ヶ浜などプロデュースし、郷里での活動にも積極的だった本田竹広氏は平成18年1月12日午後6時半、急性心不全のため東京中野区の自宅で死去した。
幼少時からクラシックピアノを学び、国立音大在学中にジャズに転向。本田トリオなど結成し1969年、日本ジャズ賞の最優秀新人に選ばれた。「ハードなピアニスト」「怒りのピアニスト」などと称されその地位を築いた。73年渡辺貞夫カルテットに参加、78年にフュージョン・グループ「ネイティブ・サン」を結成。常にジャズ界の第一線で活躍していた。88年にはジャズで宮古の地域活性化を目指したビッグイベント「ジャズイン浄土ヶ浜」をプロデュース。
酒の飲みすぎから95、97年と二度の脳梗塞に倒れた。「復帰は無理」と言われ、生死の間をさまよいながらも人工透析、リハビリをしながら見事に復活した。2002年に宮古市で開かれた第1回宮古ジャズ祭、04年のコンサートなど郷土の人々に復帰をアピールし、父・幸八氏が作曲した宮古高校校歌などを収録したCD「ふるさと」で新境地を開いた。05年7月、東京・紀尾井ホールでクラシックを含むリサイタルを行い成功を収めたが、直後に心臓肥大で約2ヵ月入院。その年の年末から演奏を再開し、06年1月11日にも都内でライブ演奏を行っていた。演奏後一人自宅に戻ってから息をひきとった。自宅のベットで亡くなっているのを家族が見つけた。

感受性豊かなピアノ少年

本田竹広(本名:本田昂)は昭和20年8月21日、父・本田幸八氏と陽子さんとの間に長男として生まれた。父は宮古高校などの音楽教師をしており、母もまたピアノ講師をしていた。一歳違いの妹・理子(みちこ)さんとの4人家族だった。昂という名は「戦後の日本人が卑屈にならないよう、公然と胸を張って生きて行けるように」と付けられたと言う。 少年時代の彼は父と母の手ほどきを受け4歳の時からピアノを学んだ。その感性たるや天性のもので、8歳の頃、天才少年として新聞紙上を飾った。昭和29年9月30日付けの『岩手日報』に「音楽の秋、東が盲人のピアノ少年とヴァイオリン少年ときたが西方にだってピアノをひく少年ぐらいはいる。しかもこの少年はいま満八歳。上野音楽学校の入試課題曲のイギリス組曲イ短調をすでにマスターしているという天才ピアニスト少年だ」とある。ここにすでに非凡な才能をもったピアニストが生まれていた。

12歳で新たな航海へ

わんぱく盛りの少年は毎日、ふるさとの海に山に遊び、そしてピアノに向かっていた。そんな少年にある日、大きな転機が訪れた。愛宕小学校5年生の時、仙台市で行われたコンサートに出演。その演奏の素晴らしさに驚いた関係者が芸大の先生に再び彼の演奏を聴いてもらったところ「すぐに東京で学びなさい」ということになった。小学校6年の2学期を終えて、12歳の竹広少年は母、妹との3人でふるさと宮古を旅立った。
以来、ふるさとの海を脳裏に刻み、音楽の道を歩んだ。中野区立第九中学校、国立音大付属高校と進んだ少年は運動能力も高く、常に人気の中心にいた。言葉のコンプレックスがあったのではと思われていたが、順応性の高い少年には関係なかった。むしろ宮古弁を忘れていなかったのはやはり望郷の念が強かったものだろう。晩年、宮古弁を語る彼の表情は優しかった。このことは病気で言葉を話すことが出来にくい不自由さが、宮古弁へと回帰することでスムーズに表現出来る喜びも味わったものとも理解できる。

ジャズに転身。風になった少年

順調に音楽を学んでいた高校時代、ラジオの全国放送で彼の演奏が流れた。遠く一人宮古の地にいた父はそのラジオを聴いて「立派な演奏だった」と東京に電報を送った。のち、その父に国立音楽大学の学生になった彼は、突然ジャズをやりたいと切り出す。音大では作曲の勉強もしていたが、いつしかジャズにのめり込んでいた。クラシックピアニストを目指していたはずの彼にまた転機が訪れた。父・幸八氏もクラシックへの道を望んでいただけに驚きは隠せなかった。
マイルス・デービスの「枯葉」を聴き、天の啓示に導かれるように大学を中退。かくしてジャズ・ピアニスト本田竹広はここに誕生した。以後の活躍はここに記すまでもない。
亡くなる前日までライブ演奏をしていた。まさしく「力の限り最後まで」だった。「いつか再び故郷の浄土ヶ浜で」との願いも空しく、あの竹広少年は風になった。

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