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末広町の思い出

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古老が語る末広町 末広町で家電販売店を営んでいる大越貞雄氏が語った思い出

私が末広町において商売を始めたのは昭和12年。場所は現在のエーゼット(現山清商店)の所で、写真機・材料店としてでした。14年頃には商売も順調に進み、その頃の末広町の街並はだんだんと出来上がり、ほとんど現在の基礎ができていたのではないでしょうか。よく食堂に入ると、当時は木のイス、土間があり仲々風情がありました。

やがて戦争が始まり長い苦難の道が続きました。そして終戦。進駐軍が宮古にも来て、海員学校(現海上技術短期大学校)がキャンプとなり、200~300人が常駐していました。

その頃の写真機店は少なく、私は進駐軍の仕事を一手に引き受け毎日夜遅くまで焼き付け、水洗い、乾燥と忙しい日々が続きました。その頃、新幣に切り替えられ銀行にはドルを持って両替に行ったものです。

昭和25年に末広町にすずらん灯が設置されました。その設置のため青年団の仲間と奔走しました。なんとか町を良くしたいとの一念でした。本当にいい思い出です。

30年頃になると商売の方は、進駐軍からの仕事も少なくなり、材料なども中央管轄になり、仕入れも難しくなりました。そこで写真機店をやめ、電気材料店として新しく始めました。電球や電線などが中心でしたが、ラサ工業、田老鉱山などと取引きをしました。その流れが現在の家電製品の商売となった訳です。

末広町と共に歩んできた我々ですが、今後の末広町を考えるにあたり、土地がないから何も出来ないという事ではなく、本気になってこれからの街づくりを考えれば、必ず何か出来るはずです。そして、何に対してもですが全ては時が解決してくれるはず…。と、私は信じております。

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