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新里

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目次

新里の歴史

旧新里村は、旧田老町と同じく今年の6月、市町村合併によって新宮古市となった。北上高地の中に位置し、県内でも屈指の豊かな自然を有し、山紫水明の地でもある。その地ではかつて多くの人々が木こりや炭焼き、あるいはマタギ、鉱山関係者として、山の恩恵を受けて暮らしてきた。それら「やんもうど(山人)」が育んできた新里の歴史、文化は脈々と継承されてきた。

中世の新里と閉伊川流域の土豪たち

奥州藤原氏の時代、新里周辺には田久佐里を姓とする一族が栄えていたようだ。刈屋貴船神社(刈屋明神)の棟札写には次のようにある。
文治元季田久佐里三郎佐衛門(ぶんじがんきたくさりさふろうざえもん)
奉造立
七所明神本地薩f(しちしょみょうじんほんじさつた・ぞうりゅうたてまつる)
卯月廿四日
淡海公末流藤原祢宜平太夫(おうみのきみまつりゅうふじわらのねぎへいだゆう)
文治元年(1185)は平家一門が滅亡した年であり、源頼朝が奥州藤原氏に対して服属を求めて圧迫を加え始める時期にあたる。文治元年の奥州合戦は日本史の分水嶺であった。奥州藤原氏滅亡後、源頼朝は征夷大将軍に任じられ、建久3年(1192)に鎌倉幕府を開いた。この時、奥六郡・仙北三郡など奥州藤原氏の旧領は、鎌倉御家人に対する恩賞の地として給与された。
一方、藤原氏の家臣ではない、旧支配者層の在地土豪たちはそのまま領地を安堵され、新しい支配体制に組み込まれた。刈屋の田久佐里氏もその一人であろう。
戦国時代の新里は比較的平穏であったが、天正年間(1573~1592)には閉伊郡の地頭であった閉伊一族の間で地域紛争が起きたほか、南部氏による軍事侵略があり、時の閉伊氏宗家田鎖氏も三戸南部氏の支配下に服属するようになった。
その当時の新里の勢力図を見ると、まず閉伊川流域では腹帯氏・茂市氏・蟇目氏がいて、刈屋川河谷をみると刈屋氏・和井内氏、北山には鳥取氏がおり、それぞれに村に館を構えていた。これらの館はいずれも山城形式の城塞で、創建当初は小規模な砦であったようだが、戦国時代になると本格的な築城が行われ、その規模は拡大され構造も複雑になった。

宗家田鎖氏と刈屋氏・和井内氏連合軍とが戦う

戦国時代末期の閉伊地方は、閉伊氏宗家田鎖氏を中心に田鎖十三家の領主たちが閉伊川・刈屋川流域の村々に勢力を扶植し「一揆」と呼ばれる固い盟約を結び、領地の防衛、村の開発に共同して努めていた。この枠組みに楔を打ち込んだのが三戸城主・南部晴政で、刈屋氏・和井内氏を味方に引き入れ、さらに茂市氏にも勧誘の手を伸ばし閉伊氏宗家田鎖氏の孤立化を企てた。だが茂市氏はこの誘いに乗らず、天正4年(1576)に田鎖氏とともに日の沢口で刈屋氏・和井内氏連合軍と合戦に及んでいる。
この後、三戸南部氏による田鎖十三家の切り崩しが成功し、閉伊郡支配が実現するのは南部信直の時代、天正十六(1588)のことで、桜庭安房光康(さくらばあわみつやす)・楢山帯刀義実(ならやまたてわきよしざね)の軍勢が閉伊地方に出陣すると、ほとんどの領主が南部氏に従ったのである。

暮らし支えた村の産業

藩政時代の新里村は「宮古通」の行政区に属していた。代官所は宮古にあり、蟇目村、茂市村、腹帯村、刈屋村、和井内村の5村がその統治下に置かれていた。村々には南部家の御蔵入地と楢山氏ら南部氏家臣の所領である知行地が入り組み、前時代のような一村一領主という支配体制は消滅した。
御蔵入地の村は宮古代官所が統治し、村の組織は検地帳に登載された本百姓を中心に構成されていた。本百姓たちは5人組を組織し、5人組を代表する組頭の有力者を老名(おきな)と呼んだ。村の責任者・肝煎(きもいり)はその中から選任され、盛岡藩政のもとで農村支配の末端を担っていた。

  • 炭焼、狩猟

木炭生産は近代に入って盛況となった。製炭用の原木は樹齢20年以上の落葉広葉樹が最適で、炭焼きに従事する人々はおよそ3年ごとに山を移動したという。鉱山が衰退し、炭焼きを生業とした人々は生活用の木炭生産に転換し、「やんもうど」として植林と伐採を繰り返しながら山を守ってきた。マタギと呼ばれる猟師たちも「やんもうど」であり、彼には特有の習俗、秘伝があった。「山立根本巻」というマタギの免許状があれば全国どこでも狩猟が許されたという。

  • 林業金山

水稲の生産に適しない新里5村の産業は鉱業と林業、馬産、閉伊川の漁業が支えていた。中世から近世初頭にかけて腹帯金山や刈屋金山が開発されたが、江戸時代中期には鉱脈が絶えて衰退。炭焼き、養蚕、屋根葺材となる柾板や和紙、真綿、麻の生産が農村の大事な収入源となっていた。

  • 川留漁

閉伊川の漁業は鮭・鱒が中心で、蟇目地区では鮭留漁が行われていた。慶長17年(1612)10月8日の「南部利直黒印状」(「岩手県戦国期文書1」所収、宮古「刈屋文書」)によれば、田鎖村から腹帯村に至る閉伊川の瀬主18人に対し362本の鮭役が課せられたことがわかる。

  • 養蚕

養蚕の振興は盛岡藩が貢納品として真綿を指定したことが要因だ。当時の真綿は最高級品であった。正保元年(1644)の刈屋村の役綿納入量は三貫二四〇匁と記録されており、村内には養蚕供養塔が多く点在している。

  • 製紙業

和紙は閉伊川紙として名声があり、現東和町の成島和紙と並ぶ盛岡藩内の主産地であった。紙漉きは下刈屋地区で行われ、原料となるコウゾは主に和井内地区で栽培された。製紙業はやがて茂市・蟇目地区にも広がりをみせていった

宿場町新里・盛岡ー宮古を結ぶ五十集の道・宮古街道

宮古街道は約100キロの道のり。盛岡城下と宮古を2泊3日で結ぶ脇街道で、経済と物流の重要ルートであり、新里の宿場町も活気を呈していた。三陸沿岸の海産物「五十集」や内陸部の米・雑穀・生活物資、北上産地の鉄、山里の産物を運ぶ塩の道・鉄の道としても知られた。異国船の来航が懸念された江戸時代後期には、海防のための軍事ルートとしても重視された。しかし、閉伊川の渓谷に沿って曲がりくねる道筋には難所が多く、沿道の村々の公役負担である夫伝馬は難儀を極めた。これは藩の御用物資を運搬するために村々に課した公役負担で農民には苛酷な役務であった。
この街道を安全に往来できることを願い、改修工事に尽力した牧庵鞭牛和尚は宝暦5年(1755)から亡くなる前年の天明元年(1781)まで、その半生を道路改修に捧げたことは有名だ。また、文政6年(1823)には五戸町の御給人・藤田武兵衛が自費で道普請を行いたいと盛岡藩に願い出た。これには宮古町の商人たちも300貫文の献金を行ったという。鞭牛とともに忘れてはならない人物である。
宮古街道の歴史は改修と自然災害との闘いでもあった。享保3年(1718)の閉伊川・刈屋川大洪水の被害は甚大で、街道は十数年もの間、不通となった。そのため茂市村から田代村にかけて尾根づたいに進む山岳道路が緊急整備されたが、農民の夫伝馬役はいっそう苛酷になった。
幕末の万延元年(1860)6月盛岡城下から山岸・浅岸・元信・銭掛・笹ノ平・カヤノ・釜津田・大川・浅内・上有芸・田代・山口を経て宮古に至る、まったく新しい宮古街道が整備された。牛方の道を彷彿させる山岳ルートで、海防に関わる緊急事態に備えた新道整備であったのだろうか。

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