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御城下ヨリ宮古迄街道図

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盛岡市中央公民館所蔵の古文書「御城下ヨリ宮古迄街道図」は御城下(盛岡)の上田通りから宮古までの閉伊街道の道のりを絵地図にした9メートルほどの長い巻物だ。これが書かれた時代は明確になっていないが江戸後期と推測される。紙質による劣化に加え当時の文字のなかには不明瞭なものもあり、地図に記載された難所名、注意書きなどは正しく読みとれない箇所も多い。
この地図をトレースしてゆくと、現在宮古~盛岡を結ぶ国道106号線が旧街道の上を通っていることがわかる。ただ、難所続きだった宮古街道では、難所を避けるため川幅や川の流れが穏やかな部分に橋をかけて難所をかわしているため、当時宿場町として賑わったとされる川井村箱石地区などは、川向かいが街道になっている。
地図にある「駅」と記載された地区は、交通機関である馬の継所である。藩の御用荷物、あるいは藩献上品などを、宰領が馬搬送した場所であり、運搬手段の馬を仕立てたり取り替えたりすることができたという。
この地図によると御城下~宮古までの距離は138里、内訳は宮古~蟇目15里、蟇目~茂市7里、茂市~腹帯7里、腹帯~古田7里、古田~川井7里、川井~箱石10里、箱石~川内15里、川内~平津戸15里、平津戸~門馬5里、門馬~田代10里、田代~梁川15里、梁川~御城下25里であり、その間11カ所の近道(縮道)があり、五十集泣かせの難所は28カ所余りと記載されている。

南部藩と江戸時代の交通 奥州道中と接続した街道

慶長3年(1598)南部氏は盛岡に築城し、同時に武家屋敷、寺社などの城下町割が定められた。のち、庶民が盛岡城下に定住したのは元和期頃(1615~)で、領内の町並みをはじめ街道整備もこの頃から進められたと考えられている。
慶長8年(1603)徳川家康は江戸に幕府を開き、大名の配置を定めた。同時に武家諸法度の発布で一国一城の制度を定め、参勤交代制度を実施した。これにより各大名は定期的に江戸表へかり出されることとなり、各藩による街道整備が盛んに行われた。明暦3年(1657)、南部重直は領内の街道を整備、日光街道に準じて奥州街道に松並木を植えることを命じている。
街道が整備されると、主要道に連結する枝線の街道も発達する。また、城下は多くの人が暮らす一大消費地であり、各地からの物流も盛んになってゆく。奥州街道に連結していた主要道は、現在の国道4号線に連結する各国道であり、宮古~盛岡を結ぶ国道106号線もそんな街道のひとつでもあった。奥州街道に連絡した主要道は次の通り。

  • 雫石街道

城下の夕顔瀬橋から西へ向かう。新田町、三ツ家、前潟へ。そこから滝沢日向一里塚、雫石町を経て秋田藩領内へ通じる。

  • 鹿角街道

JR花輪線沿いの街道で、盛岡から田頭、寺田、荒谷、田山を経て鹿角(花輪町)に通じる。

  • 大槌街道

三陸沿岸に通じる街道。城下から東南へ向かい乙部、大迫、達曽部、遠野を経て大槌に達する。なお、遠野から分岐し釜石へ通じる。

  • 宮古街道

三陸沿岸の宮古に通じ城下から東へ。城下から、田代、門馬、川内、川井を経て宮古に通じる。宮古の五十集が城下へ鮭を中心に海産物を運んだサーモンロード。

  • 野田・小本街道

三陸沿岸の野田、小本へ通じる街道。城下から藪川、門、岩泉を経由する、塩の道。 沢内街道 城下から西へ滝沢(大釜)を通り秋田街道から分岐し雫石川を越えて安庭、南畑を経て沢内へ通じる。
これら諸街道は寛文期(1661~)頃に整備が進められたともの考えられている。参考文献『図説盛岡四百年』

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