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山田町と東日本大震災

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わが宮古市と隣接し、経済圏域を同じにしている山田町。陸中海岸のほぼ中央に位置し、山田湾と船越湾のふたつの湾を擁している。この地域も沿岸各地と同様に3.11大津波の被害を受けた。長い間積み重ねてきた歴史も文化も津波に飲み込まれてしまったのは言うまでもない。

目次

津波災害の記録

東日本大震災では809人の犠牲者

明治29年の三陸大津波では、山田町の死者は約2950人、負傷者は約1370人であった。その他、家屋の流失や全壊等多くの被害を受けた。昭和8年の津波では、死者・不明者は18人、負傷者は12人。その他、家屋の流失や全壊等多くの被害を受けた。 チリ地震津波が襲来した昭和35年は、幸い死者は無かったが、多くの家屋の流失や全壊、床上・床下浸水等の被害を受けた。 そして今回の東日本大震災の大津波では、平成25年8月12日現在で、死者・行方不明者809人となっている。家屋の被害も全壊から一部損壊も含めて7199戸が被災した。町内43箇所に1940戸の応急仮設住宅が建設され、今に至っている。

被害の状況

津波来襲後大規模火災が町を襲う

山田町では、地震(震度5弱)の被害は少なかったが、津波(波高 5m~6m程度)により市街地面積(約407ha)の約5 割(209ha)が水没した。山田町役場は、山田漁港から約 400m 離れた市街地から外れたやや高台に位置しているため庁舎への津波の直接被害は免れたが、役場庁舎の地下1階の道路に面した通路から海水が流入し、地下1階天井近くまで水没している。津波襲来直後に発生した火災は、プロパンガスや車に引火して爆発を繰り返し深夜になっても収まらず、役場庁舎付近の民家にまで及んだが、道路を隔てた庁舎は火災による被害を免れている。 明治29年の津波で被害を受けた船越地区では、高台移転により今回の津波では被害が少なかった。しかし、海岸沿いのその他の地域では大部分の住宅が津波による被害を受けた。山田町の主要産業である養殖も 被害を受け、山田湾にあった養殖筏 8000 基が全滅している。

やまだまち風土記

山田町のあゆみ

70代鈴木善幸内閣総理大臣を輩出した山田町は、有史以来忘れることができない津波が押し寄せ、大きな災害も幾度か経験してきた。その都度町は痛手を負いながらも再建されてきた。歴史的には江戸中期の亨保20年(1735)南部藩の領内が33通りに整理され、豊間根地区は宮古代官所の管轄に、大沢・山田・織笠・船越地区は大槌通りとなり大槌代官所の管轄になった。 明治12年江戸時代に上・下に分かれていた山田村が合併した。この時の山田村は田37町余、畑85町余、宅地4町余、荒地8町余の計135町余の規模に、戸数158、人口787(男387、女400)、牛64、馬67、船43(商船5、漁船38)であった。 同19年には村内でコレラが発生し山田港に検疫官が置かれ船舶検査が行われた。同22年に、市町村制が実施され飯岡村・山田村は合併し山田町となったこれに伴い、豊間根村・大沢村・織笠村・船越村も誕生した。 明治29年には三陸大津波襲来、人口3746人のうち死者約1000名、負傷者30名、戸数782戸のうち660戸が流失、その他漁業施設など壊滅的な被害となった。同33年には東京汽船が三陸海岸に就航し山田港も寄港地となり、南は塩釜と航路を結んだ。 大正期に入り山田町西川から飯岡境までの埋立工事がはじまる。この時期に山田~宮古間を結ぶ定期乗合自動車の運行がはじまった。昭和8年には再度三陸大津波により死者8名、流失家屋192戸、倒壊家屋188戸の被害となる。同10年には国鉄山田線山田駅が開業した。 太平洋戦争を経て、戦後昭和23年、アイオン台風により山田線は大きく被災、鉄路は分断され復旧開通した同29年まで物資輸送が大幅に滞った。この間、岩手県北バス・山田~宮古間の運行が開始され、町の医療を担う県立山田病院の開設、山田中学校の新校舎落成などがあり、昭和30年には山田町・豊間根村・大沢村・織笠村・船越村の一町四カ村が合併し、現在の山田町が誕生した。

やまだまち歴史散歩

重茂半島南端の明神崎、船越半島北端の小根ヶ崎、仮宿崎の懐に広がる山田湾は外洋から守られた天然の良港として船舶を守ってきた。波穏やかな湾内はオランダ島の別名がある大島とそれに寄りそう小島があり、湾を囲むように熊ヶ崎、伝作鼻、浪板崎、大浦崎がある。湾内ではイカダによる養殖漁業が盛んでホタテやカキが名産となっている。江戸期は浜街道であり大槌代官所配下の大槌通に属した。海に近く漁業が発達した土地ではあるが、岬と山林が入り組んだ地形で多彩な環境であり古くから多彩な暮らしが営まれてきた。

謎が多い中世の山田

南北朝時代の山田方面を統治していたのは山田氏という地方豪族とされる。鎌倉時代末期には山田一帯は山田六郎の所領だったが、大沢御牧場の馬を殺害狼藉の疑いで山田を追放されると、跡地は山田と飯岡に分割されそれぞれに新たな統治者が着任した。飯岡村を統治したのが山田六郎の捕縛を命じられた南部又次郎だった。そして山田を管理統治したのがブナ峠に居城を持っていたとされる藤原朝臣何某であったと考えられれている。藤原氏は旧浜街道に沿って築城されたブナ峠附近の沢田舘に居城し、『東奥古伝』によれば「藤原朝臣何某の住みけるよし、如何なる故にや、竹の御所と云う」とある。また、この時代を経て山田の代官として派遣されたとされるのが宮古松山大久保家の『大久保昔書遺翰』にある山田関屋丸という人物だ。同古文書によれば松山舘の城主・白根正忠という人物の側室は「入江が郷の住舘にて山田関屋丸の息女なり」と記され、また、正忠の三男は山田関屋丸家を継いで、関三郎盛忠を名乗ったとされる。 この他、織笠には織笠氏の居館であった織笠川上流、霊堂地区付近の丘陵地にある中世の山城・立神舘、船越には気仙地方から北上し最終的に牧野として宮古の根城に築城した閉伊氏一族の前身と関わりがあるとされる閉伊氏の船越舘もある。 また、関口地区の佐藤家は先祖が義経の側近の侍であったと伝えられ、義経北行伝説に関係している。いずれにせよ中世の山田地方は宮古、大槌と関係が深いようだが、確定的な文書等はなく謎が多い。

織笠舘と船越舘

織笠には織笠川上流、霊堂地区付近の丘陵地に南北朝時代の山城であった織笠舘、別名・立神舘があった。舘主は織笠氏と伝えられ代々南部氏に奉仕し、南部14代義政の頃、戦功があり織笠氏を名乗ったとされる。船越には気仙地方から北上し最終的に牧野として宮古の根城に築城した閉伊氏一族の前身と関わりがあるとされる船越舘がある。舘はJR船越駅を過ぎて田の浜・船越方面へ向かう分かれ道の小山部分で、国道45号線で分断されている。舘主は初期の閉伊氏とされ気仙からきた一族で釜石の尾崎神社、船越の荒神神社とも関係がある。初代閉伊氏とされる閉伊頼基は一族を率いて船越に築城しこの地で没したとも伝えられ、船越舘を捨て宮古根城に築城したのは嫡男である二代目・家朝と考えられる。

外国船漂着とオランダ島

様々な歴史の背景のひとつとして、1643年にオランダ船ブレスケンス号が山田湾に入港。水、食料、野菜を補給するために入港した船員に町の人々は温かいもてなしをした。 ブレスケンス号は、オランダ・東インド会社の命令によってカストリクム号とともに日本の海岸線に沿って進んでいた。ところが暴風や濃霧などの悪天候により2隻ははぐれてしまった。ブレスケンス号は水や食料を求めて山田湾へと入港した。 当時は徳川幕府の鎖国の時代。突然の黒船来訪に住民はもとより南部藩、幕府も驚き、大騒動となった。結局、船長ら10人が役人に捕らえられて連行。江戸でも取り調べを受け、その結果、鎖国当時でも国交のあったオランダから来たことが理解され、その年の暮れに釈放された。 記録によると、ブレスケンス号は6月10日と7月28日に山田湾に入港している。1回目は水を補給。地元民に歓迎されながらも出帆。2回目の際は、水、食料補給のため上陸したところを捕らえられたのである。2回目に入港、碇泊した場所は大島付近で、船員がこの島に渡り飲料水を汲んだ。このことから昭和29年、大島をオランダ島と命名した。 そんな史実がきっかけで350年を経た平成5年にオランダ王国との文化交流が始まった。ユース年代を迎えてのサッカー交流や、オーケストラの演など、ヨーロッパの香りが届けられてきた。

鞭牛と山田浜街道

閉伊街道の開削者・牧庵鞭牛の山田地方の道開削のはじめは、宝暦10年(1760)3月。地域の人の願いで16日、船越村山ノ内集落に「南無阿弥陀仏」碑を建立した。ここは海岸端の難所であり、過去犠牲者の多く出たところであった。集落の人々が総出して、鞭牛の指揮指導のもとで開削が行われ、28日に道が完成し道供養碑が建立された。 宝暦12年(1762)には大沢袴田の地に六角塔が建立された。この塔は鞭牛が閉伊街道開削の完成を記念して建てた供養碑である。碑の6つの面には道橋普請供養塔、普請悪難所百八箇所、和井内村薬水湯開起、人足六万9千三百八十四人、宝暦元年ヨリ同十二年迄、願主林宗寺6世牧庵鞭牛和尚と刻まれている。袴田の地は、鞭牛が初めて餓死者を供養した場所であり、その霊に対して道開削の慰霊の意味も込めて、この地に六角塔が建てられることになったと考えられている。 明和2年(1765)2月には、織笠新田から吉里吉里に抜ける山道の開削が行われ、28日に茂兵衛の押立石と言われる巨大な道供養碑が建てられた。3月3日には、飯岡から織笠に越える飯岡峠の道開削が行われ、道供養塔が建てられた。同4年4月には織笠川の架橋が行われている。10日に橋供養の碑が建てられたが、これには鞭牛に名は刻まれていない。施主として鞭牛最大の協力者鈴木善治郎の名が刻まれている。同6年には地域の人々の要請により飯岡峠に「南無阿弥陀仏」碑が建立された。

山田せんべいのルーツ

山田町の名物のひとつに山田せんべいがある。胡麻をベースに雑穀や木の実、米粉などを入れ、直径20センチほどに薄く伸ばしたせんべいだ。  その昔、下閉伊通りが大飢饉になった時、山田町関口地区に住むある老婆の枕元に「飢饉に備え胡麻や米の粉、胡桃でせんべいを作れ」と不動様の託宣があった。老婆はそれに従い真っ黒なせんべいを作り、関口地区では飢饉を免れたという伝説が由来になっている。その後、釜石の新日鉄の溶鉱炉で働く人、遠洋トロール漁に従事する人など危険な現場で働く人たちが、関口地区の関口不動尊を信仰した際、山田せんべいの真っ黒な色は不動様の御神体の色と同じだということで御利益があると噂になり、以後、山田名物のせんべいとして定着した。

山田と義経北行伝説

関口地区の佐藤家は先祖が義経の側近の侍であったと伝えられる。当家の先祖は義経の兄・源頼朝が挙兵した際に、藤原秀衡が頼朝の下へ向かう義経に同行させた佐藤三郎継信、四郎忠信の末弟だったとしている。佐藤家にはこの逸話に関した文書が保管されているという。また、佐藤家は義経北行伝説にも関係しており、義経一行が持参していたと伝えられる陣中釜や鎌倉期のものとされる秀衡椀があるという。

山田町の捕鯨とイルカ漁

山田町で大型のクジラをとる捕鯨が始まったのは戦後で、大沢地区に日東捕鯨株式会社という会社が誕生してからだ。日東捕鯨は昭和24年に農林大臣から大型捕鯨の許可を得て、マッコウクジラ、イワシクジラの捕獲を始めた。その後は、シロナガスクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラの捕獲も行い、昭和29年には160頭が山田に水揚げされている。その後はマッコウクジラの捕獲が主体となり、昭和52年にはマッコウクジラだけで893頭もの水揚げがあった。 その後、IWCによる規制により商業捕鯨が禁止になり、昭和62年マッコウクジラ87頭、ニタリクジラ5頭の捕獲を最後に山田の捕鯨は幕を閉じた。 18世紀の中頃に、山田大浦地区では網を使用したイルカ漁が始まっている。これは湾に入ってきたイルカを追い込み、網で捕獲する追込網という漁法で、大正時代まで約200年の間続けられた。大正2年には、2000~3000頭という大量のイルカがとれたと伝えられている。山田町ではイルカ漁の他に、オットセイ猟、トド猟も行われていた。オットセイは毛皮や食用として、トドは食用にされていた。 三陸沖のイルカは、四季を通じて回遊している。その種類はマイルカ、スジイルカ、カマイルカ、セミイルカ、ネズミイルカ、リクゼンイルカなど。大浦のイルカ漁では、リクゼンイルカ、マイルカ、ネズミイルカなどが捕獲されていたという。

江戸から明治の山田町

江戸期の山田は代官所があった大槌通に属した山田村として存在した宮古通への交通の要所であった。関谷の千馬小路には高札所があって町並みがあり、魚介荷揚所、酒屋、船小宿があったという。内野には土豪・内舘掃部がおり75軒の家があり、関口には佐藤備前森政がおり肝入をしており、上山田村、下山田村の二村に分かれていた。 明治12年、上・下に分かれていた山田村が合併した。明治22年に、市町村制が実施され飯岡村・山田村は合併し山田町となった。その後、昭和30年(1955)には山田町・豊間根村・大沢村・織笠村・船越村の一町四カ村が合併し現在の山田町が誕生した。

山田町備忘録

町営国民宿舎タブの木荘

観光開発の大きな役割を担って町営国民宿舎「タブの木荘」が、船越の景勝の地にオープンしたのは昭和41年11月だった。敷地総面積1・42ヘクタール。庭園、園地、展望台、駐車場を備え、宿舎は鉄筋3階建てで1650平方メートル。収容定員120名、個室25室、ロビー食堂、大広間(90畳敷)、番某、浴室が整備された。事業費は9337万円だった。42年2月には岩手県北バスがタブの木荘線運行を開始した。47年2月に、タブの木荘レストハウスがオープン。しかし、45年の利用率58・5パーセントを頂点に下りはじめ、57年3月に閉舎した。

家族旅行村オープン

昭和61年7月、船越浦の浜に50万7千平方メートルを利用した県民の観光レクリエーションの場として海洋性の「船越家族旅行村」が誕生した。県費15億5500万円での事業費だった。ピクニック広場、わんぱくジャブジャブ広場、芝生広場、海浜キャンプ場、林業観光園のほか水辺公園には休憩舎、ボート池、アヤメ園、その他駐車場4ヶ所(300台収容)などが整備された。62年には芝生広場の小高い丘にケビンハウスが建てられ、63年7月にはレストハウス「貝船」がオープンした。

大観覧車が目玉のマリンパークパーク山田

昭和62年8月、町、民間出資による第三セクターの「陸中山田マリンパーク株式会社」が設立された。大規模総合開発事業の導入などにより、夏季集中・通過型から通年滞在観光への脱却を図り、多様化する観光需要に対応して、地域経済の進展と活性化を目的に誕生した。株主39名、資本金1億8700万円。代表取締役山田町長をもって、昭和63年4月「マリンパーク山田」としてオープンした。東北博覧会で使用された東北一の大観覧車(高さ50メートル、120人乗り)、ツインドラゴンなど大型遊具11基を設置し、観光振興に多大な役割を果たすものとして期待され、オープンした。  開園1ヶ月の入場者は7万1千人を記録、平成2年にはジェットコースターを導入した。平成4年には「三陸海の博覧会」の共催会場ともなった。  当初数年間は目標入園者を確保したが、平成4年の三陸博覧会後は、長引く不況や少子高齢化と若者の流出に伴う人口減等の影響から、解散を決意。平成12年3月31日をもって閉園した。

観光船の運行と船越半島巡り船

昭和30年5月、陸中海岸が国立公園の指定を受け、同31年宮古市が宮古~浄土ヶ浜~日出島の島巡りの観光船を運行、同35年から県北自動車が引き継いだ。同36年県北バスは観光船営業所開設、38年浄土ヶ浜~釜石航路が認可、同39年山田湾内航路人か、山田~田ノ浜航路認可、船越湾内航路が認可され、県北バスの観光船第三陸中丸が就航した。昭和50年、陸中海岸国立公園指定20周年を記念して、浄土ヶ浜~とどヶ崎~田ノ浜航路が実現、第十陸中丸が就航した。陸中丸が就航する前には、田ノ浜に「はまぎく」と「始祖鳥」という観光船が不定期に運行されていた。 また、昭和39年、観光船第三陸中丸が船越半島巡りの観光船として就航した。しおの景観の素晴らしさに人気を集めたが、利用者の減少から平成9年10月末で定期運航は廃止、不定期臨時運航となった。

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