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山根三右衛門

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  • やまねさんうえもん【分類・漁業家】
  • 明治~昭和:明治23年~昭和46年(1890~1971)

近世の建網漁業の先駆者

湾内に固定した網を仕掛け、定期的に網起こしをして漁獲を得る建網漁業は江戸時代から存在し改良されながら現在に至る。そんな建網漁業で明治から戦後まで大きな漁獲を得て宮古の経済界に影響をもたらしたのが山根三右衛門であった。
三右衛門は明治20年代、宮古湾奥の堀内で地引網を営む漁家に生まれた。子供の頃は身体も小さく「サンコ」というあだ名で呼ばれる少年であったが、負けん気は人一倍強く、けんかでも相撲でも勝つまで諦めない根性をもっていた。
学業を終えると三右衛門は地引網や鰯粕を炊く家業を嫌い、畜産業の仕事に従事、後に炭焼業に転向し、山を買い人を雇って炭を大量生産するようになる。炭製造業が軌道に乗った明治末頃、三陸町、越喜来の定置網の経営をはじめるチャンスをつかみ定置網経営で大成功をおさめる。
これを機に同級生だった故・山野目辰之助、番頭でのちの町会議員の故・小林三郎、故・蛇口嘉郎を加え山根漁業部を設立、昭和2年宮城県大谷村の定置網で大ブリ6万尾の大漁を記録しその名を知らしめた。次いで昭和8年には気仙沼小壁、釜石沖網、重茂与奈、宮古三丁目、崎山姉ヶ崎、普代黒崎の建網を次々に経営してゆく。そしてこれらの定置網がもたらす経済力で北海道まで手を広げ、昭和14年幌泉漁場で16貫の大マグロ7千尾という日本定置網史上最高の漁獲を記録する。
戦後には津軽石、宮古の漁業組合、県漁連、宮古湾連において組合長、あるいは重鎮の座をつとめ、食料不足だった終戦直後には津軽石川の鮭を津軽石地区内全戸配給などの特別処置も行った。また昭和30年頃には北洋サケマス船、マグロ船などの船主にもなりあちこちに支社を設立し、漁業不振等の浮き沈みに紛糾しながらも漁業者として最後まで海とともに生きた。
そんな三右衛門であったが昭和46年8月、高血圧により倒れそのまま他界、晩年は好きな庭を眺めて暮らす日々だったという。

一代で財をなした三右衛門が拵えた庭園

宮古市赤前の堀内地区の漁業家、山根正光さんの庭園は、広さ約300坪ほどもある広さで、屋敷の外からもその庭園の大きさが分かる。昭和9年から3年かがりで造った比較的新しい庭で、若々しい木々の数々が近代的な造形美を醸し出している。
4本柱のケヤキの門が迎え、右手の内門をくぐった所に広々とした庭園が映る。今は水が入っていないが庭の前部に瓢箪池が配置され、以前までは水が積石の間に白い糸を引いて走り、この池に落ちていたという。その背後に築山が続き、池をめぐる庭石の間を縫って松、カエデ、キャラ、チャボヒバ、サツキ、ツツジなどが整然と植え込まれ、周辺で遊ぶ野鳥のさえずりに一日の心が和む。母屋よりには埼玉県から取り寄せたという竜舌ランが植えられ、松の緑とその色を競っている。
造園したのは正光氏の祖父、山根三右衛門氏。若い頃は木炭、木材業などを経営していたが、後に定置網漁場開拓に生涯を捧げ、大正末期から昭和にかけて、宮城県日門、北海道幌泉の定置網を開発し、その成功によって地位と財力を一代で築き上げた。郷土の人物伝として紹介された出版物もある。

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