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山崎権三

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戦後再発足したの宮古漁協の開祖

 山崎権三は明治33年(1900)11月29日に津軽石村に生まれた。大正4年(1915)津軽石村立津軽石尋常小学校高等科を卒業、賢く利口な少年と評されたが家が貧しく進学を諦め独学で勉強をしたという。昭和3年(1928)宮古漁業組合に書記として就職、同11年(1936)保証責任宮古漁業協同組合参事、岩手県水産会理事、宮古市漁業会参事を歴任、遂には、昭和27年(1952)二代目の宮古漁業協同組合組合長、同38年(1963)には宮古湾漁業協同組合連合会会長として近代漁業の発展のため尽力した。

 終戦後の統制下時代を経て戦後の漁業は大きな変革を遂げることになるが、山崎権三はそんな激変の時代に漁業振興に奔走し、漁業組合法制定後から現在まで続く宮古漁業協同組合の祖となる人物として語り継がれる先駆者もである。また、水産関係では県、国、団体の機関が運営する幾多の会社、組合の要職につき、さらには昭和26年(1951)岩手県議会議員に推され当選、同34年(1959)には県議会議長となり二期、8年を勤めている。その間には昭和33年(1958)に宮古商工会議所会頭などの要職につき、漁業だけでなく商工業をはじめ宮古周辺の観光発展にも尽力している。

 組合精神を重んじた山崎権三は、組合の基本財産の造成を計り、同時に教育の振興と人材育成のため奨学資金制度を導入、経済的理由から進学を諦める子供らを支援し、多くの人材を育てた。また、今でも古老たちの脳裏に残っているであろう宮古港華やかなりし時代でもある昭和30~40年代のサンマ漁、サケ・マス延縄漁業による外来船誘致を積極的に展開、これにより宮古を漁業基地として育てるとともに集結する大船団は宮古の商業をも潤した。

 国道45号線の整備が進み、岩手国体が行われた昭和45年(1970)4月7日に没した山崎権三だが、没後15年が経った昭和59年(1984)近代の宮古漁業協同組合の祖として偉業を讃え、胸像を建立しようと実行委員会が発足、同年8月宮古漁協ビル前庭で除幕式が行われた。台座には当時の組合長理事・長澤榮次郎、宮古湾漁連会長・大井仁輔をはじめ理事らの連名が連なる。台座に乗った山崎権三の胸像は、山崎権三を知る盛岡の彫刻家・菊池政美の手による。胸像は権三の故郷である津軽石がある南を向いている。

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