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寺井酉松

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  • てらいとりまつ【分類・政治】
  • 大正~昭和:大正10年~昭和25年(1921~1950)

教育に力を注いだ県下最年少25歳の村長

に学んだ。昭和17年、北部第16部隊に現役入営し外地を転戦。敗戦後復員した。
当時の村長は戦後の公職追放により、その座を失った。酉松は復員後は役場をやめて農業に従事しようとしていたが、引っ張り出されて村長代理助役になり、その後の選挙で村議会議員、青年会、村民の圧倒的支持を受け、無競争で17代村長に就任した。まだ25歳の若さだった。この時の三役は、助役古舘掌一郎22歳、収入役佐藤幸蔵22歳と実に若かった。
村政の舵取りを任された酉松は時代の情報を的確に把握しながら勉強し、旧時代の改革に対応した。中でも力を注いだのが教育。村の発展は人材育成にあるとの信念だった。貧弱な財政、村議会の反対をよそに、新制中学の独立校としての中学校校舎建設を進めたほか、村費による教科書の無料配布、役場にひとつしかなかった電話を各集落に設置、保健制度導入などと住民サービスに取り組んだ。当時としては珍しい村役場の窓口事務の方式も取り入れた。
当時の新岩手日報の記事に青年村長の異色と紹介され、「当面の課題は新学制による中学校校舎と教員住宅ですが大体二百万円の予算で計上しており財源は村有林を払い下げ漁業実行組合の寄附を仰いですぐに実現したい。(略)崎山はなんといっても人材にとぼしい、私の経験からいって教育施設だけはどうしても完備します」と答えている。
就任3年目の昭和25年、酉松は妻ツネとともに肺結核に侵された。県立宮古病院に共に入院し治療につとめたが急激に衰弱。その年の5月3日に妻ツネが、そして3日後の6日に酉松が後を追うように逝った。力を注いだ中学校校舎建設は農業作業場を借りての仮校舎を経て、酉松死後の6月に上棟式、11月に落成式を迎え県下初の独立中学校として完成した。悲願の中学校校舎を見ることなく、青年村長は風のように駆け抜けその短い生涯を終えた。

  • ※参考資料/県立宮古水産高校「懐古悠々百周年記念誌」※実弟 寺井清氏談
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