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宮古港戦蹟碑

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近代初の洋式海戦を伝え残す

近代日本初の洋式海戦であった宮古港海戦を後世に伝え、北の海に散った戦士たちを慰霊するため大正6年に建立された碑である。当時の鍬ヶ崎にあった先代菊池長右エ門氏の私邸「対鏡閣」に建立されたものをのちに、ラサ工業鉱石貯蔵所建設のため対鏡閣が撤去されるのに伴い現在地の大杉神社境内に移転された。
碑には海戦は明治2年3月25日、旧幕府軍が新政府軍の軍艦を奪うため宮古港で激突した詳細が記されており、幕府軍は武運つたなく破れ敗走したがこれが日本初の近代海戦として名を残した戦いであったことが刻まれているが、碑文は長文の漢文で書かれ、軍事用語、中国古事の例えなどが多いため読み下しは難解だ。そのためかこの碑文を読み下した各資料でも微妙に表現の食い違いがあるようだ。本誌でも各資料を参照に現代の読みに変換したが原文の表現までは至っていない。また、碑の額になっている題字は自身も明治新政府軍艦「春日」の士官として宮古海戦に遭遇した東郷平八郎によるものだ。碑文の選出は西肥の岡直養、文を書いたのは明治新政府海軍学校において教師であった小笠原長生によるものだ。

宮古港戦蹟碑の文を記した、海軍中将子爵であり日本の海軍史家・小笠原長生は私書『帝国海軍史論』の中で宮古海戦における回天艦の行動を次のように記している。宮古海戦は我が国が戦に汽船を使用以来僅か10数年しか経っていない時期であったにもかかわらず、洋上で展開された日本初の西洋式戦闘行動であり、両艦が密接しての激戦は日本海軍史上特筆されるものである。また、最新鋭艦の甲鉄の捕獲のため宮古湾に錨泊していた8隻の官艦に単独で突入したことは潔しとし日本男子の敢為と言うべし。戦闘で艦将・甲賀源吾が戦死したがもしこの作戦が成功し、甲鉄が旧幕府軍の手に落ちていれば函館戦争の戦況は変わっていただろう…。と宮古海戦の命運を記している。

宮古港戦蹟碑の題字を書いている元帥伯爵・東郷平八郎は、宮古海戦時に三等士官として官艦「春日」に乗り組んでいた。晩年に至り海軍雑誌『有終』第174号において宮古海戦を振り返り次のように記している。
  海戦のあった日は午前4時半総員起床。すると一艦が米国旗を掲げ進んできたので各艦の乗組員は甲板に集まって投錨の有様を見物しようとしていた。すると星条旗が急に降ろされ日の丸の旗が揚がり、艦は旋転し甲鉄右舷中央に直角に乗り上げ、同時に弾丸が放たれ轟然たる戦闘と化した。両軍の小銃や槍刀などで戦闘が開始されると回天艦長甲賀源吾は、艦首に備え付けてある56斤砲を甲鉄に向かって発砲、甲鉄の甲板上で死傷者が出た。この時、官艦は抜錨し回天を包囲、四面より弾丸を発射、この時回天艦長・甲賀源吾は右腕、左脚を撃たれ更に頭を打ち抜かれ倒れた。回天は戦闘を放棄、港外に逃れ出たが、春日、甲鉄、陽春、丁卯が全速力で追撃に出たところ、羅賀の沖合で賊艦高雄が機関故障で漂泊するのを発見、これに砲撃を加える。高雄は羅賀付近の海岸・石浜に座礁、自ら艦に日を放ち乗員は陸に逃れた。
回天は元々三本マスト(三穡)だったが品川を脱して北航したとき暴風に遭いマストを2本失っており、官兵はこの情報を知らず侵入してきた1本マストの艦船が幕艦回天であることに気づかなかったのである。

宮古海戦蹟碑読み下し

元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎 額 海軍少将子爵小笠原長生 書 陸奥の国に港あり宮古という。元和中南部藩の創る所なり。 仙台より北海に岩礁多く或いは断崖壁立つ。ただこの港のみ湾曲して奥深く以て繋泊。故を以て東北に航する者は必ずここに寄る。 明治中興海内束ね服するに独り榎本武揚等王命に順ぜず 潜(ひそか)に所部を率いて函館に拠る。 朝廷、詔(みことのり)を下し、これを征(せい)す。 海陸並びに進み、甲鉄、春日、丁卯の四艦、宮古に碇泊(ていはく)す。 武揚、部将・甲賀源吾をして来(こられ)り襲わしむ。 乃(すなわ)ち、撃ちて之(これ)を却(しりぞけ)追跡して其の一艦を沈む。 既(き)にして武揚ら降(こう・投降)を乞い北海、隊(ついに)平らぐ。 初め、武揚らの率いる所、開陽、回天、曁(および)咸臨(かんりん)、神速(しんそく)、長鯨(ちょうけい)、三嘉保(みかほ)等は或いは破(こわ)れ、或いは拏(つか)れ、僅かに回天、蟠竜、千代田と 佐竹藩より奪う所の高雄とあり。 外声(がいせい)勢いを張れども、内に弾薬乏しく、 武揚、諸将を集めて議す。 源吾、曰く、我一艦と堅く守りて敵をまたんより 如(しかず)して進んで攻める 彼(か)の甲鉄は最も堅鋭(けんえい)なり。 盍(なんぞ)襲い取りて以て我が用と為さざる。 我二艦を以て甲鉄を挟(はさ)み、一艦は其の他に当たらば 成らざらんと無けんと。 部署既に決まり、源吾、回天に乗じ蟠竜、高雄率いて宮古に赴く。 台風に会い蟠竜は後(おく)れ、高雄は機関壊れる。 源吾曰く、我一艦と雖(いえど)も以て敵を破るに足りれりと、 暁霧に乗じ、星旗を以て進む。 星旗は美国(米国)の微(しるし)なり。 既(すで)にして甲鉄に近づき、乃(すなわ)ち旭旗(きょくき)を樹(たつ) 舵を横衡(おうきん)、源吾、予(あらかじ)め死士を揀(えら)み、 舷(ふなばた)の接するを待ちて躍り入らしむ。 是に至りて甲鉄は下丈余りにあり投下すべからず。 下衆(したしゅう)邊(あたりを)巡り、源吾、揮刀(きとう)叱咤する。 大塚波次郎、声に応じて先ず投ず、 衆相継ぎて下り、縱横(じゅうおう)奮撃する。 渡邊某は駁棍(ばくこん)を奪い苦闘、而(しかして)後に縋(すが)り上る。 背に数創を被(こうむ)るも遂(つい)に免(まぬが)れる。 余衆(みな)尽(つき)殪(たお)れ、源吾、乃(すなわち)巨駁を 轟(とどろ)かし甲鉄を俯撃(ふげき)する。 官兵、快砲を以て艦橋を急射する。 源吾、身に数創を受け遂に殪(たお)れる。 荒井郁之介に代わり勢いの支えざる見て却走(きゃくそう)する。 蟠竜と洋中に遭い倶(とも)に函館に還(かえ)る。 実に、明治二年三月廿五日なり。 是(これ)なる役(えき)は交戦数刻を出(い)でざるに、 両軍の死傷、頗(すこぶる)多く、 而(しか)して、回天尤(もっとも)惨烈(さんれつ)を極める。 源吾等寡(すくない)衆を以て攻め、勝敗を一挙に決せんとし、 徒容として指揮し苦戦して命を畢(おわ)る。 順逆、勢いを異にし、敗衂(はいじく)に終わると雖(いえど)も、 其の志(こころざし)洵(まこと)に壮なりと言うべし。 菊池君、義名は郡の望族なり。碑を建て其の遺蹟を追求せんと欲し、 予(よ)文を嘱(しょく)す。 図を按(あん)ずるに港袤(こうぼう)三里、口を北に開き、腹を南に張り、 月山其の東に聳え、閉崎と立崎、犬牙相対する。 当時を追想するに、塵戦(じんせん)の状、恍(こう)として 腥気(しょうき)筆端(ひつたん)を覚える。 銘じて曰く人はその名を墜(おとす)も 我は厥(その)志(けっし)を偉(い)とする。 傑狗(けつく)暁に吠え趨避(すうひ)する所なし。(中国の古典の例え) 艨艟(ぼうしょう)堅きにあらず、剣駁(けんばく)利きにあらず、 維斯(ただこれ)神州士道の枠(いき)。 大正六歳次丁巳三月 西肥 岡直養撰

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