宮古海戦
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硝煙の海原。戊辰戦争と宮古海戦
慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争は幕末から明治にかけて日本全土を戦火に包んだ。その戦いはこの宮古の地まで北上。見果てぬ夢を追いかけた男たちの壮絶な戦いがこの地で繰り広げられ、ある者は海に散り、ある者は命からがら再び北へと彷徨した。
明治2年旧3月25日、後の「箱館戦争」の明暗を分けたとも言われる近代初の海戦「宮古海戦」はわずか30分あまりの戦いだった。だが、相手の軍艦を奪い取る奇襲作戦というドラマチックな戦いだった。
北海道箱館に立て籠もり、新政府(官軍)との戦いに備えていた旧幕府軍は、旗艦「開陽」を失ったため、新政府の最優秀艦「甲鉄」を宮古湾で奪い取る作戦を企てた。しかし、戦いは新政府軍の勝利に終わる。硝煙の海原に夢破れた男たちの時代が過ぎ去った。
幕末維新期の世相と岩手県
嘉永6年(1853)米国ペリー浦賀来航の一ヶ月後、幕府はオランダ国政府に10隻の洋式戦艦発注とそれに伴う武器弾薬、軍事技術書、戦艦操練の指導教官派遣を依頼した。この頃、ロシアの艦隊も遭難者引き渡しと日本に対して通商を迫るため軍艦4隻で来日、これに対し幕府は東北諸藩に蝦夷地の警備をさせている。
安政2年(1855)オランダ国王から蒸気船「スンビン(後の観光丸)」が幕府に献上されると幕府は長崎に海軍伝習所を開設。所長には勝海舟らがあたった。伝習生には幕臣をはじめ佐賀、薩摩、長州、福山などの各藩から藩士が集い安政6年まで約200名が学んだ。この中には幕臣の中島三郎助をはじめ榎本武揚もいた。彼らの多くは後の戊辰戦争において敵味方となって洋上で戦い、戊辰戦争後は明治海軍の指導者となり近代海軍の基礎を築いてゆく。
幕末から戊辰戦争へ。東北各藩が団結した奥羽越列藩同盟、そして宮古湾を舞台とした宮古海戦、旧幕府軍軍艦「高雄」が座礁焼沈した羅賀石浜戦、箱舘戦争を経て五稜郭開城、明治新政府による盛岡藩への処罰と赦免、近代岩手県が成立するまでの激動の時代だ。
明治二年旧三月二十五日未明鍬浦に号砲
幕軍は奇襲攻撃をかけるため荒井郁之助を総指揮に3月21日、甲賀源吾や新選組副長だった土方歳三などを主艦「回天」に乗せ、「蟠竜」「高雄」の3隻で宮古に向かった。22日に津軽海峡を越えて南部領・鮫の港を経て宮古湾に近い山田湾まで進んで敵艦の情報をつかもうとした。だが、突然天候が急変。回天は荒波にもまれながらも進んだが、蒸気力の乏しい蟠竜、高雄はぐんぐん離れ、いつしか船影も見えなくなった。
回天が山田湾に到着したのは24日午後。密偵が宮古湾に敵艦が停泊との情報を伝えてきた。そこに高雄が入港してきたが、蟠竜は現れない。「2隻だけで決戦を」と改めて作戦が練られた。
25日未明。回天、高雄は山田湾を出航。このまま走り夜明け前の宮古湾を急襲すれば勝算は十分あった。ところがまた誤算が生じた。高雄が機関に故障を起こしてずるずる遅れた。修理を待っていれば作戦は挫折する。いつ敵艦が出航するかわからない、とうとう回天一艦だけの攻撃となった。
回天は米国旗を掲揚して北上、閉伊崎付近に達したところで夜明けとなった。回天は微速前進、錨泊中の甲鉄を発見すると、すばやく旭日旗を掲げ右舷を甲鉄の左舷に突進させた。しかしその衝撃で両艦の距離が10メートルほど生じたため回天は後進して新たに接舷を試みた。しかし回天の甲板より甲鉄の甲板は3メートルほど低く艦首に集まって飛び移ろうとした陸兵たちは躊躇した。これは回天が外輪船であるため平行接舷が出来ず甲鉄に対して船首を衝突させるしか手立てがなかったからだ。
飛び移ろうとする回天の陸兵を阻止するため甲鉄の兵が応戦、両艦が接触状態のため他の官艦は砲撃出来ずにその戦いを見守るしかなかった。この敵艦に接舷し戦う戦法は回天に教師として乗船していたフランス人・ニコールの提案だった。のち、この戦法が日本における近代海戦のさきがけとして記録に残ることになる。
最終的に回天から7名の陸兵が甲鉄に飛び移り2名が生還、この戦闘で回天艦将・甲賀源吾を含む十数人が死亡、甲鉄の兵数人が死傷した。戦いに費やした時間はわずか30分程度で、艦将を失った回天は北へと遁走した。
官艦は幕艦追撃のため即時抜錨、途中で速力の上がらない高雄を発見、砲撃を加えこれを追撃。高雄は自走で逃げることは不可能と判断、羅賀の石浜に座礁、艦に火を放ち乗員は陸路を遁走したが後日、野田代官所に出頭、南部藩がこの処理にあたっている。
官軍戦艦甲鉄を奇襲作戦で奪取せよ
南部領宮古湾の鍬ヶ崎に錨泊する明治新政府軍艦隊に最新鋭艦・甲鉄奪取の奇襲作戦を敢行するため、明治2年(1869)3月21日、旧幕府軍の軍艦・高雄、蟠竜、回天が函館を出港した。三艦は22日、津軽海峡を越え南部領・鮫の港に集結。この地で宮古に錨泊しているという官艦の情報を得ようとしたが叶わず、やむなく沿岸警備をしていた役人一人を回天の船内に拉致し陸上を進軍している官軍の情報を得た。しかしながら依然として官艦の動向は不明のままだった。
各艦の艦将、甲賀源吾(回天艦将)、松岡磐吉(蟠竜艦将)、古川節蔵(高雄艦将)、海軍奉行荒井郁之助らは軍議を開き、宮古湾より南五里にある山田湾に入港しそこから官艦の実否を確かめ、行動を定めるとし、午後、三艦は鮫港を後に南下した。しかし、突然天候が急変、回天は荒波にもまれながらも進んだが、蒸気力の乏しい高雄、蟠竜は遅れをとりいつしか僚船は視界から消えていった。
24日には天候も回復、回天は山田湾口に至る。この時洋上に高雄の煤煙を確認、二艦は山田湾に錨泊する。しかし作戦実行艦の蟠竜は未だ姿を見せない。密偵を放ち宮古湾に錨泊する官艦の情報を得ると乗員の士気は昂ぶる。指揮官はここで僚艦蟠竜の到着を待てば襲撃のチャンスを逃すと判断、高雄、回天二艦での作戦遂行を決定、25日午前3時に山田湾抜錨、夜明け前の宮古湾へ向かった。ところがここで高雄の機関が故障、速力は落ちずるずると回天から遅れた。高雄の修理を待っていれば作戦は挫折する、官艦はいつ宮古を出港するか判らない…。残された道は回天一艦での奇襲作戦しかなかった。海軍奉行・荒井郁之助、艦将・甲賀源吾、陸軍奉行・土方歳三ら乗員48名が乗り組む回天は高雄を後に単独宮古湾へ向かったのだった。
硝煙の海原に回天艦長・甲賀源吾戦死
甲賀源吾(享年31歳)は天保9年(1838)遠江国掛川藩家臣・甲賀孫太夫秀孝の第4子として生まれた。安政2年(1855)17歳に江戸へ出て蘭学を志し同5年(1858)航海術を学ぶため江戸の幕府軍艦教授所から長崎の海軍伝習所に進んだ。ここで後の戊辰戦争で同志となる荒井郁之助とともにオランダ語で高等数学を研究、艦隊操練の書などを翻訳している。その後幕府の輸送船や諸艦の艦長を経て、鳥羽・伏見の戦いの直前に長崎海軍伝習所軍艦役となり大政奉還後、元海軍副総裁榎本武揚に同調、軍艦・回天艦長として艦隊を率いて江戸品川沖から北上した。
明治2年(1869)3月の宮古海戦では、脚や腕に被弾しながらも回天甲板上で猛然と指揮していた甲賀だったが、ついに頭を撃ち抜かれて戦死。享年31歳であった。艦長を失った回天は荒井郁之助が舵をとって北へ遁走。翌日には函館に到着し戦死者は翌日埋葬された。その後回天は船内を清掃、砲座の修理を行い新艦長に根津勢吉が就いて函館戦争で壮絶な戦いのなか座礁し、修理不能のため砲台場と化し乗組員が脱出した後新政府軍に放火され焼沈する。
戊申戦争後、荒井郁之助はその遺稿の中で回天の長所と欠点、幕府が購入する成り立ちから日本初の軍艦であり、その悲運を切々と記している。その中で回天の艦長は甲賀氏であり、自分も日々戦闘の準備と鍛錬に明け暮れ戊辰戦争を甲賀氏と共に戦ったと結んでいる。
回天乗組員と死傷者氏名
わずか30分の戦闘だったと言われる宮古海戦だが接舷作戦から甲鉄へ飛び移ろうとした回天側の、旧幕府軍は10人以上の死者を出している。遺体は回天に収容され函館で葬られた。回収できなかった遺体はのちに水葬されたが藤原須賀に打ちあげられ藤原の大井氏らが「仏に官軍も幕軍もない」と観音堂脇に埋葬した。宮古海戦における回天の死傷者は次の通り。また、記録では侍ではないが舵取の半七が戦死している。
回天乗組員 | |||||||
司令官 | 荒井郁之助 | 艦長 | 甲賀源吾(戦死) | 軍艦頭並 | 根津勢吉 | ||
軍艦役 | 矢作平三郎(戦死) 淺羽幸次郎 |
軍艦役並 | 渡邊大蔵 新宮 勇(負傷) |
一等蒸気役 | 近藤主馬(てんま) | ||
一等測量 | 大塚波次郎(戦死) | 見習一等 | 筒井專一郎(戦死) 塚本録介 徳田祥太郎(しょうたろう) 上田寅吉 淺夷(あさい)正太郎 谷 友次郎(ともじろう) 關(せき)由三 |
見習二等 | 布施 牟(ぼう?)(戦死) 安藤太郎(負傷) |
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見習三等 | 小栗 東 浮洲 一 |
俗務 | 齋藤 齋(ひとし) 田上義之助 |
醫師 | 南条玄道 | ||
乗務稽古人 | 淺羽源之助 以上士官之部 |
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臨時乗員 | |||||||
教師・佛人 | ニコール(負傷) | 陸軍奉行並 | 土方歳三 | 新撰組 | 野村理三郎(戦死) 相馬主計(かずえ)(負傷) |
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彰義隊 | 笹間金八郎(戦死) 加藤作太郎(戦死) |
神木隊 | 三宅八五郎(戦死) 川崎(島?)金次郎(戦死) |
日本初の洋式海戦となった宮古海戦
回天は米国旗を掲げて宮古湾に侵入した。新政府軍の艦船8隻が停泊している。どれも機関の火を落として煙突から煙も見えない。狙う「甲鉄」が目前に迫ると同時に旗を日章旗に変えた。「アポルタージュ」と攻撃命令が飛んだ。回天の軸先がいきなり甲鉄の脇腹へつっかけて、そのまま乗り上げた。2艦はちょうどT字型になってもがいた。斬り込み隊が甲鉄に飛び乗ろうとした。ところが甲鉄が8尺ほど低くて容易に飛び降りることが出来ない。何人かが飛び降り甲板上で戦いが始まった。だが、このあとに続くものがいない。この間、甲鉄側は態勢を立て直し反撃に出た。1分間に180発も発射できるガットリング機関銃が火を吹いた。甲鉄に降りた兵士が次々に弾に倒れた。この機関銃が積んであることを回天側は知らなかったのだ。「退却!」と荒井郁之助が命令を出した時、艦長の甲賀源吾が銃弾に倒れた。作戦は失敗した。回天は甲鉄を奪うことなく敵弾を浴びながら後退、そこに高雄が向かって進んでくる。「遅かりし、高雄」と回天は悔やんだ。高雄さえいれば甲鉄は完全に奪うことが出来たのに、と……。
戦いは30分あまりの激戦だった。両軍の死者19人、負傷者34人。後にこの戦いが近代海戦史の初となった。
宮古崎山の大沢浜と山田町大沢
宮古海戦を記した郷土出版物のなかで、宮古海戦前夜に宮古崎山沖に停泊した幕艦から密かに小舟で崎山村の大沢浜へ上陸した幕軍兵士がおり、佐原山(現在の県立宮古病院付近)に登り望遠鏡で鍬ヶ崎に停泊する官艦を確認し立ち去った。あるいは蛸ノ浜付近の漁師に金銭を与え情報を探ったと記述するものが数点ある。この中で昭和4年発行の『下閉伊案内』(勝山泰三著)では、崎山村大沢に小舟で漕ぎ着けたのは荒井郁之助他数名とし、佐原山から鍬ヶ崎港を偵察したと記している。次に昭和9年発行の『宮古港大観と郷土の名所遺蹟』(宮古日日新聞社刊)では、崎山沖に停泊した黒船からボートで浪人浪士数名が上陸、漁師の案内で鍬ヶ崎を内偵したとあり、昭和30年の『鍬浦史話』(沢内勇三著)では幕艦から発した短艇が崎山の浜に上陸。和服姿を交えた賊軍一行が早稲栃を経て佐原の丘に達し偵察、里人から官軍の行動を探り引き返したと記載されている。これらの記述がどのようにして語り継がれたのかは不明だが、当時の資料や日誌などの文書にあった「大澤」あるいは「大澤浜」の記述から崎山村の大沢浜(現在の大沢漁港)と山田の大沢を取り違えたと考えられる。函館を出港した回天、高雄、播竜の三隻の幕艦の合流点としての目的地は山田湾であり、情報収集も山田で行われたと考えられる。南下途中に仮停泊し崎山村大沢浜から内偵したというのは後世の郷土史家の取り違えであり、日出島が別名軍艦島と呼ばれる由来、佐原山からの眺望などは仮説の整合性を強引に埋め合わせるために創作された逸話だったのではないか?と思われる。
奇襲作戦には情報収集が不可欠であり南下する途中で停泊し情勢を探るのは常套手段であろう。しかしながら幕艦三隻は蒸気を動力とする火力船であり、偵察説で言う荒井郁之助が司令官が乗船していた回天がその役であれば、停泊中の煤煙が目視され、加えて作戦司令官の偵察下船という筋立てはあまりにも無謀だ。また、山田から土方歳三ら数名が官軍兵士に変装して宮古の内偵を行ったという説もあるがこれも確固たる確証はないと思われる。
激動の幕末と南部藩
明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いによって火ぶたがきられた戊辰戦争の戦火は元将軍・徳川慶喜が江戸に帰還し恭順の意を示した後も勢いが衰えなかった。戦火は北関東から東北へ広がり函館にまで及んだ。東北では進軍北上する新政府軍と旧幕府軍となった奥羽越列藩同盟軍が裏切りと寝返りの戦を展開し奥羽独立をかけた薄氷の同盟は数ヶ月で破綻する。仙台藩、米沢藩とともに秋田戦争に荷担した南部藩は降伏後、藩主転封と禄高減、謀反首謀者として家老・楢山佐渡が刎首となった。
鳥羽伏見の戦い発生
慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が消滅すると王政復古が行われた。前将軍・慶喜は衝突を避けるため大阪城へ撤退していたが、明治元年(慶応4年・1868)1月3日、江戸で起こった薩摩藩の挑発に乗じた元京都守護隊でもある会津、桑名両藩の旧幕府軍が京都で挙兵。京都南の鳥羽・伏見において薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府の兵と衝突した。この戦いは旧幕府側として戦列に加わっていた諸藩の官軍側への寝返りなどで旧幕府軍は敗退。1月6日、敗戦濃厚と判断した慶喜は、元京都守護職・松平容保(かたもり・徳川家よ血縁の会津藩主)、老中・板倉勝静(かつきよ)らを従え大阪沖に碇泊していた旧幕府軍艦・開陽丸で海路、江戸へと戻った。このような状況下で明治元年(1868)1月15日明治新政府は奥羽諸藩に対し徳川慶喜を追討せよと命令を下す。さらに17日には仙台藩に対し会津藩江戸藩邸で謹慎していた松平容保を討てと通達。松平容保ら幕臣たちは日光や会津へと逃れた。この動乱を南部藩が知ったのは18日で藩は動揺した。このときすでに仙台藩では反薩長の同盟案が出ていた。南部藩内も賛否両論あったが朝廷命令とあれば一旦出兵し建白を待つと回答し、家老楢山佐渡は情勢を把握するため京都へ向かった。
奥羽の鎮撫は奥羽の兵を使う
大政奉還後江戸まで侵攻した新政府軍の兵力も関東掌握に疲弊、翻弄しており関東以北においての戦いには充分な兵力をさけぬまま、旧幕府軍を追従しなければならなかった。この状況を打開するため新政府軍は「奥羽諸藩の鎮撫は奥羽諸藩の兵力を以て行う」という思考で仙台藩、米沢藩に対し即時の会津藩攻撃を促す。これに対し仙台藩は支城・白石城まで挙兵、奥羽鎮撫使に対し戦を回避したい旨を記した嘆願願を提出、一方で会津藩には降伏勧告使節を送った。しかし、後日仙台藩、米沢藩、会津藩の重臣による会談は成立したが会津藩の態度はあくまでも反薩長の強行姿勢だった。それでも会津藩の歎願書と、奥羽諸藩の連名がある添書が仙台藩、米沢藩の手により奥羽鎮撫府総督・沢宣嘉(のぶよし)に提出された。この時、南部藩は勅命に従い新政府軍として同盟を結んだとされる会津、庄内藩に対して出兵する準備をしていた。鎮撫府では提出された会津藩と奥羽諸藩の歎願書の対処について討議したが、奥羽鎮撫府参謀下・世良修蔵が強行出兵を主張、閏4月17日会津討ち入りが決定した。長州出身の強行派・世良にとっては会津藩の松平容保は旧京都守護職でありその支配下である新撰組に対しては宿敵でありこれを討つのは己の宿願でもあった。ところがこの結果に反感を持った一部仙台藩士と福島藩士らが閏4月20日、相馬の妓楼・金沢屋で世良を拉致、これを阿武隈川河原で斬首してしっまた。この事件により奥羽諸藩は旧幕府側へ荷担する姿勢となり諸藩の運命は流転することになる。
奥羽越列藩同盟発足と崩壊そして南部藩と幕末明治維新
鎮撫府に提出した歎願書が受け入れられなかったと判断した会津藩は逆に侵攻を開始、白河城を占拠してしまう。閏4月23日、仙台藩白石城に奥羽27諸藩の重臣が参集、大政官宛(朝廷宛)の建白書と各藩の盟約書の作成が協議され、最終的に5月3日、奥羽として独立した政治体系で戊辰戦争の動乱を乗り切る奥羽越列藩同が結成される。その頃、徹底抗戦の覚悟を決めていた会津藩は援軍となった旧幕府軍の水戸浪士などと合流して越後白河口へと進撃したが、列藩同盟に名を連ねた北越諸藩は次々に陥落、会津軍はじりじりと後退してゆく。8月20日、伊地知正治、板垣退助が率いた新政府軍は会津攻撃の行動を開始、会津藩とそれを擁護する奥羽同盟を巻き込んだ会津戦争がはじまり9月22日会津藩は降伏する。
侵攻や寝返りで奥羽同盟は脆く崩れ、当初は南部藩が討つべき相手であり、のちに友軍となって最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのは会津藩降伏の2日後の9月21日だ。この時旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、8月24日旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、千代田丸、神速丸他の旧幕府艦隊を率いて品川から脱出した榎本武揚らと仙台で合流、榎本は新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容して出港、10月13日水や薪など補給のため宮古・鍬ヶ崎に入港、数日滞在し16日函館へ向けて出港している。宮古代官所には御水主や農民兵も配備され、鏡岩、館ケ崎には砲台場もあったが、南部藩は奥羽同盟参加と秋田戦争での処分を受ける身で新政府軍に降伏しており、旧幕艦の入港に対処する力はなかった。
奥羽越列藩同盟参加藩
▲印は同盟直後に脱退 |
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白石列藩会議から参加した14藩 | |||
藩名 | 現在 | ||
仙台藩 | 宮城県仙台市 | ||
米沢藩 | 山形県米沢市 | ||
二本松藩 | 福島県二本松市 | ||
湯長谷藩(ゆながや) | 福島県いわき市 | ||
棚倉藩(たなぐら) | 福島県東白川郡棚倉町 | ||
亀田藩 | 秋田県由利本荘市 | ||
相馬中村藩 | 福島県相馬市 | ||
山形藩 | 山形県山形市 | ||
福島藩 | 福島県福島市 | ||
上山藩 | 山形県上山市 | ||
一関藩 | 岩手県一関市 | ||
矢島藩 | 秋田県由利本荘市 | ||
盛岡藩 | 岩手県盛岡市 | ||
三春藩 | ▲ | 福島県三春町 | |
新たに奥羽同盟に参加した11藩 | |||
久保田藩 | ▲ | 秋田県秋田市 | |
弘前藩 | ▲ | 青森県弘前市 | |
守山藩 | 福島県郡山市 | ||
新庄藩 | ▲ | 山形県新庄市 | |
八戸藩 | 青森県八戸市 | ||
平藩 | 福島県いわき市平 | ||
松前藩 | ▲ | 北海道松前郡松前町 | |
本荘藩 | ▲ | 秋田県由利本荘市 | |
泉藩 | 福島県いわき市泉 | ||
下手渡藩(してど) | 福島県伊達市月舘町 | ||
天童藩 | 山形県天童市 | ||
奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩 | |||
長岡藩 | 新潟県新潟市 | ||
新発田藩 | ▲ | 新潟県新発田市 | |
村上藩 | 新潟県村上市 | ||
村松藩 | 新潟県五泉市 | ||
三根山藩(みねやま) | 新潟県新潟市 | ||
黒川藩 | 新潟県胎内市 | ||
その他 | |||
請西藩(じょうざい) | 千葉県木更津市 |
楢山佐渡と秋田戦争
南部藩家老・楢山佐渡は奥羽諸藩と締結した奥羽列藩同盟の信念を貫き出兵を決断、明治元年(慶応4年1868)8月8日、秋田藩に戦書を送り自らも鹿角から大館に至る中間にあたる秋田藩北・十二所(じゅうにしょ)に進軍した。十二所を守護していたのは秋田藩の茂木筑後らだったが防衛体制が充分ではなく楢山軍の攻撃で、茂木らは大館方面へ逃走。大館は秋田藩の支城が置かれ、藩主佐竹氏の分家である佐竹大和らが守護しており、楢山軍と一進一退を繰り返していたが、8月20日、楢山軍は大館手前の扇田へ進出、大館で抵抗した秋田藩は城に火を放ち退却、楢山軍は大館に入り占領布告を宣言、さらに久保田城へ侵攻する勢いとなっていた。
秋田藩(佐竹藩)は奥羽越同盟か朝廷かで藩論が二分している時、秋田藩士が仙台藩からの使者を斬殺、この事件で秋田藩は奥羽越同盟から孤立した。この時期、同盟は崩れかかってはいたが、北方から南部の楢山軍が、横手方面から仙台藩が、正面をきって庄内藩が新政府へと寝返った新庄藩、本荘藩、久保田藩へと迫っていた。奥羽各地で勃発する諸藩の仲間割れ的戦の対処に奥羽鎮撫総督府は危機感を募らせたが、秋田藩の援軍として最新式の銃で武装した佐賀藩、小城(おぎ)藩を投入、8月27日米代川沿岸の荷上場(現秋田県能代市)で秋田藩と合流し楢山軍と相まみえた。
旧式の和銃が主体の楢山軍は新式の後装填式の銃で武装する佐賀・小城軍に圧倒され後退、9月2日、扇田は奪還され5日には楢山軍はついに大館を放棄撤退、9月25日、楢山佐渡は秋田藩に対し休戦の使者を送った。
南部藩と楢山佐渡の最後
楢山佐渡は天保2年(1831)盛岡藩家老楢山帯刀(たてわき)の庶子として生まれ盛岡で育った。6歳で殿様のお相手として城へ召され15歳で側役となった。時の藩主は悪政で名高い12代南部信濃守利済(しなののかみとしただ)であり家老として24歳で登城し弘化三閉伊一揆、同嘉永一揆の後処理や藩財政立て直しに奮闘した。県内に多くの知行地を所有し、宮古も楢山の知行地として機能しており田鎖の刈屋氏など多くの家臣がいた。秋田戦争の際は宮古の刈屋氏をはじめ家臣らも楢山軍として参戦している。明治元年(1868)9月20日の南部藩の降伏で盛岡城は武装解除され、翌年の明治2年5月14日軍務官より藩主は減禄、白石へ転封、楢山佐渡は反逆首謀者として刎首(はねくび)の命令書が下る。6月23日楢山佐渡は盛岡名須川町の南部藩菩提寺でもある報恩寺の一室で切腹、刎首となった。楢山佐渡、39歳であった。
慶応3年、4年の主要事件
慶応3年1867 | ||
4月 | 坂本龍馬、海援隊を組織、土佐藩に属す | |
6月7日 | 近内製鉄所の門が完成。門番として宮古の御水主2人を申しつける | |
6月29日 | 中岡慎太郎、陸援隊を組織する | |
7月 | 大久保利通、岩倉具視ら王政復興を計画 | |
10月3日 | 土佐藩、幕府へ大政奉還を建白 | |
10月14日 | 将軍、大政奉還する旨を朝廷に提出 | |
11月16日 | 大政奉還、将軍職辞退の達し書(11月2日立ての飛脚)京都より届く | |
11月15日 | 坂本龍馬、中岡慎太郎京都で暗殺される | |
慶応4年・明治元年1868 | ||
1月3日 | 鳥羽伏見の戦(戊辰戦争はじまる) | |
1月8日 | 徳川慶喜、旧幕府軍の敗戦が決定的となり、側近・老中、板倉勝 静、酒井忠惇、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)と共に 大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却 | |
1月15日 | 王政復古を各国公使に布告 徳川慶喜を追討せよと奥羽諸藩に勅命が下る |
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1月17日 | 江戸で謹慎中の松平容保(会津藩主)を追討せよと仙台藩に勅命下る | |
2月16日 | 松平容保(会津藩主)、江戸藩邸を出て会津に向かう | |
3月2日 | 世良修蔵、奥羽鎮撫総督府下参謀に任命される | |
4月11日 | 仙台藩、会津討伐のため白石城(仙台藩支城)に陣を張る 仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)、奥羽鎮撫使(ちんぶし)宛に 戦中止の嘆願書提出し、同時に会津藩に降伏勧告使節を送る |
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4月26日 | 伊達刈田郡、関宿にて仙台藩・家老の坂英力(さかえいりき)、但木土佐( ただきとさ)、真田喜平太、米沢藩・家老の木滑要人、片山仁一郎、大瀧 新蔵が、会津藩家老の梶原平馬と会談。奥羽鎮撫使への斡旋を依頼嘆 願の内容を討議する | |
閏4月4日 | 会津藩嘆願書、奥羽鎮撫使総督・九条道孝に渡る 副総督・沢宣嘉(さわよしのぶ)、参謀下・醍醐忠敬(だいごただゆ き)、世良修蔵に意見求める |
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閏4月17日 | 嘆願拒否。即刻討ち入りの命下る | |
閏4月20日 | 福島の妓楼・金沢屋で奥羽鎮撫使参謀下・世良修蔵暗殺 | |
閏4月23日 | 奥羽越27藩の重臣、白石城に集い、大政官宛の建白書作成 奥羽越列藩同盟が成立する |
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5月1日 | 白河城陥落 | |
5月19日 | 越後長岡城陥落 | |
6月2日 | 棚倉城陥落 | |
6月13日 | 平城陥落 | |
6月27日 | 本宮陥落 | |
6月29日 | 二本松、長岡陥落 | |
7月26日 | 三春藩降伏 | |
7月29日 | 二本松城陥落 | |
8月6日 | 相馬中村藩降伏 | |
8月8日 | 楢山佐渡、秋田藩に戦書を送る | |
8月9日 | 楢山佐渡、秋田藩北方の十二所に侵攻 | |
8月20日 | 伊地知正治、板垣退助ら、会津攻撃を開始 楢山佐渡、扇田攻略、大館に迫る |
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8月23日 | 官軍、若松城下に攻め入る | |
8月29日 | 秋田藩援軍を得て反撃、楢山佐渡後退する | |
9月4日 | 米沢藩降伏 | |
9月5日 | 楢山佐渡、大館を放棄し撤退 | |
9月12日 | 仙台藩降伏 | |
9月15日 | 福島藩、上山藩降伏 | |
9月17日 | 山形藩降伏 | |
9月18日 | 天童藩降伏 | |
9月19日 | 会津藩降伏 | |
9月20日 | 盛岡藩降伏、楢山佐渡休戦の使者を出す | |
9月23日 | 庄内藩降伏 |
関連事項
- 戊申戦争
- 箱館戦争
- 宮古海戦にかかわる幕末維新の雄
- 宮古海戦に関連した船舶
- 宮古海戦にかかわる石碑
- 宮古海戦余話
- 榎本武揚
外部リンク
- 宮古湾海戦(Wikipedia)