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宮古海戦にかかわる石碑

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目次

海戦の足跡

名も無き兵士が眠る墓標と海戦を後世に伝える記念碑。宮古に残る戊辰戦争の足跡を歩いてみる。

宮古港海戦記念碑・浄土ヶ浜御台場展望

宮古湾での旧幕府軍と新政府軍の戦いを偲び、明治百年にあたる昭和43年(1968)に浄土ヶ浜御台場展望台入り口に宮古ロータリークラブの手によって建立された海戦記念碑。
碑には旧幕府軍軍艦「回天」一隻で鍬ヶ崎に停泊していた新政府軍の艦隊に奇襲攻撃を仕掛けたことが、山田町出身の故・内閣総理大臣・鈴木善幸の書によって刻まれている。また碑は往時を彷彿させる大砲の台座を模したモニュメントに大砲の弾に見立てた球形の石をはさんでいる。

宮古港戦蹟碑・大杉神社境内

奥州の地宮古の港で旧幕府軍と新政府軍による海戦があったことを後世に伝えるため、当時宮古を訪れた要人接待を目的として建てられた、先代・菊池長右エ門氏の私設迎賓館でもあった、鍬ヶ崎対鏡閣の庭園内に建立されていたものを、後年、光岸地大杉神社境内に移転したもの。
石碑は2メートルほどの御影石で漢文約600字で刻まれ、碑の題字はこの戦いに新政府軍の士官として参加した後の日本海軍にその人ありとされた東郷平八郎によるもの。

官軍勇士の墓碑・愛宕小学校裏の公葬墓地

愛宕小学校裏の山腹にある公葬地の一角に宮古海戦で戦死した新政府軍兵士を埋葬した墓碑がある。碑には「阿州勘吉・四十七歳 阿州六助・五十六歳」など士官1名、水夫3名の計4名の名前が刻まれている。墓所への道は旧愛宕中学校跡地の校門付近から国道45線方面へ約200メートルほど。徒歩で約10分。または国道45号線の中里団地入り口の梅翁寺と愛宕の本照寺の中間にある小径から公葬地へ行くこともできる。また、この墓碑は西側の一部が発掘調査され、弾丸など数点が遺物として見つかっている。

官軍小西周右衛門墓碑・常安寺墓所

沢田の宮古山常安寺には官軍として宮古海戦の一年前に宮古に立ち寄った岡山藩士、小西周右衛門の墓碑がある。小西は五稜郭討伐のため宮古に立ち寄ったが病に倒れ宮古で没した。墓碑には「誠心義慮居士」の戒名がある。小西の墓は山門を潜り本堂に向かって左側の常安寺歴代住職の墓碑の横にある。

幕軍勇士の墓碑・藤原観音堂脇

53名の死傷者を出した宮古海戦終結後、旧幕府軍兵士の遺体は箱に入れられ湾外へと水葬された。しかしその後当時の藤原須賀に旧幕府軍の兵士らしい首無しの遺体が打ち上げられた。藤原の大井要右エ門は「仏に幕軍も官軍もない」と流れ着いた遺体を埋葬して弔った。この遺体は旧幕府軍の一等測量士・大塚浪次郎とも、新撰組の野村利三郎とも言われるが真意は不明だ。墓碑は国道45号線脇の藤原公葬地横にある観音堂前にある。墓碑は4本の石柱に囲まれ、右横には幕軍勇士の墓碑を説明する石碑がある。

関連事項

地図

https://goo.gl/maps/CvVZo :宮古港海戦記念碑・浄土ヶ浜御台場展望

https://goo.gl/maps/r73H3 :宮古港戦蹟碑・大杉神社境内

https://goo.gl/maps/Tgdtr :官軍勇士の墓碑・愛宕小学校裏の公葬墓地

https://goo.gl/maps/YPBdS :官軍小西周右衛門墓碑・常安寺墓所

https://goo.gl/maps/Xga1W :幕軍勇士の墓碑・藤原観音堂脇

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