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太平洋航路と海難

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太平洋廻り航路と海難

慶長の朝鮮戦役後、戦役に使用された船が民間に払い下げられ、加えて江戸幕府が開かれると物資輸送の方法とその必要性への条件が整い、海運の発達が促された。人口集中から大量の需要を求めた江戸、大坂では消費を供給するため日本海航路(西廻)は発達し多くの船が往来した。
それに対して外洋に面した港が多く、強い西風と濃霧に悩まされる太平洋航路(東廻)は開拓が遅れた。それでも寛永元年(1624)日本海側の酒田港から出帆した船が津軽海峡を経由し江戸へ米を運び太平洋航路が拓けた。以後、東廻と呼ばれたこの航路は急速に発達したが、強風、濃霧、嵐などの厳しい自然条件と、五百石積み以上の船の新造が禁止されるに及び海難事故の発生は高まった。
三陸海岸における船の起源は定かではないが、原始的な船で磯伝いに移動や漁をしていた頃から海難事故は絶えることなく起こり、大型帆船が航行する中世以降になっても自然条件、積載過剰、操船技術の未熟さなどによる破船遭難は頻繁に発生したという。 釜石市史で紹介されている「元亀以来岩手県沿岸漁民溺死集」(明治30年著)によると327年間に291隻の船が遭難し、2811人が死亡したと伝えているが、記録された海難事故件数とその犠牲者数はこ氷山の一角にすぎないであろう。

頻発した海難事故と偽遭難

天明5年(1785)6月、大阪の船「加運丸」が仙台の商人から荷物を預かり、遭難して荷打ちをしたことにしてその荷をあちこちの港で売り、宮古でも売りさばいた。仙台から召捕りのため役人がきたが、その時は船頭も主水も行方不明になっていた。役人達が諦めて帰った頃、船頭の大作と名乗る男が現れ、12月頃宮古を発った。
しばらくして大作が殺されたらしいという噂がたち、代官所も動きだし3人が捕まるという殺人事件に発展した。このようにして荷打ちしたことにして荷物をごまかそうとした事件は頻繁に発生し、発覚次第、斬罪となったが東廻の自然条件からこのような事件は後をたたなかった。
なお船頭も殺され、主水もいなくなった加運丸は時化のため流れ出し磯鶏村で破船、後残骸を磯鶏村で処分している。

遭難時の処置

廻船では遭難、難破を証明する「浦証文」を見聞し、船主、荷主が共同海損額を算出した。東廻は事故も多く船主による偽遭難も頻発した。
廻船が荷物を積んで航行中に嵐や時化に遭遇し、危険に瀕した場合、船体の保持と荷物の安全を図るため、積載している荷物の一部を海中に捨て船のバランスを保つことがあった。これは「荷打ち」「捨て荷」「はね荷」と呼んだ。これは船頭の判断で行われ、無事どこかの港へ入港したらただちに浦役人に知らせ、取り調べを受け荷打ちした証文をもらった。この証文は「浦証文」と呼ばれこの証文により後の共同海損負担が決められた。大切な積荷を捨てても船の安全性が得られない場合は、帆柱を切断した。こうなると船は推進力を失い波風にあらがわれながら漂流することになる。

破船

破船は文字通り船体に損傷を受けたため航行不能になった場合と、積荷が全て濡れて商品価値がなくなり「濡損」がでたり、それにより「荷打ち」した場合があり、それらを破船と呼んでいる。

遭難船の入港対策

遭難した船が港に入ってきた時、港を管理する浦役人、あるいは代官所は早急に対処しなければならなかった。宮古では遭難船が入ったら宮古町検断、浦鍬ヶ崎肝入(鍬ヶ崎)、崎鍬ヶ崎肝入(崎山)、廻船問屋が立ち会って残荷を封印、荷主、船主に飛脚を出した。遭難した船がどこの藩に所属しているかによっても若干の待遇が違ったようだ。

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