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大正七年都桑の人々

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都桑案内、もとより外来人のしほりであって、土地の人に資する事あまりに僅少である。「事業と人物」は編者がかつて本郡の人物を録して一書を編まんと企てたが、遂にその運びに至らずしてただ書斎の隅に虫のついばむままに捨てられていた。今、この編を成すにあたり都桑の実業家のみを録して外来人の参考に資する所以である。(花涯)

先代菊長の後を受け界隈きっての素封家。小野慶蔵氏の門に養はること数年、活眼良く世態人情に通じ、阿附を憎み誠意を尊み、細事と誰も是を軽視せざるは氏の最も特徴とするところなり。町会議員、郡会議員たるとして久しく、電気会社、自動車会社、漁業会社等の重鎮。特に南洋貿易は氏の全力を傾ける。私事業としては酒醸業、質屋業、木材業あり。詩を好み、書を好み絵画を好む。

  • 銀行家・熊谷平次郎 (宮古町新町)

宮古における紳商にして真に殖産の道に長ける。蓋し(けだし)熊平氏を以て第一とすべし。父、平助氏一代に身を起こし、二代目たる得意の頂点に達っせんとす。温厚にして機を見るに明且つ敏なり。徹頭徹尾打算主義の人にして、理知を尊み、感情を廃し、よく忍ぶに堪え、進むに躊躇せず。宮古銀行の頭取たること久しく、その発展見るべきものあり。氏の弟に熊谷巌氏あり、帝大法科出身。

宮古病院の創立たるや明治42年にして、当時盛合、関、加藤等の壮々医手、相謀りて此の挙に出て、押川医学博士をへいして威風堂々四辺を払うの概ありしが、明治43年経営立たず閉院やむなきに至りしが、大正2年病院家具一切を引き受けて自営の緒を開き、今日の基礎を作れり。氏は明治16年生まれ、同41年帝大医科を卒へて大学病院に医員たること久し。外科、内科は氏の得意とする。別に眼科専門医を置き看護婦数名を養成す。

  • 木材商・山崎善四郎 (鍬ヶ崎町)

山善こと山崎善四郎氏が木材業に志すこと数十幾星霜、奮闘的生涯を送りしかを見て立志伝中の一人に算入するもの也。氏の昔往下、下駄善を以て名ありしが、たまたま木材輸出の有望なるを達観し、初めて桐材、枕木輸出等を企て巨利を博し、後人これを模するもの多く、氏を当地におれかる木材商の元祖とする。鍬ヶ崎町会議員、宮古銀行取締役たる。

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