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向町・新川町を語る

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古老が語る昭和40年代備忘録

川の向こうの向町

向町は御水主町(おかこまち)と言われ南部藩の水兵の屋敷町だったとされていた。その向町は、南部の殿様が宮古の町割りをした時から、いやもっと前からあったのかもしれない。宮古のまちから閉伊川を渡って藤原、磯鶏、津軽石村へと向かう道筋だからである。町割りをした時の横町沢田の東西の通りから本町、新町と南北二条の通りをつけ、山口川に沿って本町から東に曲がる片桁通りが、また本町から山口川の高橋を渡り、まっすぐ船場までの間が向町である。宮古町の中心が山口川(今の中央通り)の北側になるので、そこから川の向こうの町というので向町になったのだろうか。

船場は、向町の行き止まりになっていたが、曲がると新晴橋(宮古橋の前身)で、これを渡ると藤原で、昔も今も変わらない。向町には掘り割りのような幅6mほどの川があった。きれいな流れだった。川の向こうは、黒土の川原畑のようだったが作物は植えていなかった。雨が降るとどろどろになった。その向こうが閉伊川の大河で悠々と流れていた。 向町の子どもたちはこの堀のような小川でオゲェ(ウグイ)を釣ったものである。閉伊川の流れは美しかった。向こうの中州には、柳が繁り、岸は遠浅だった。浅瀬には、ドンブグ(雑魚)が無数に群がり、河底の砂も見えぬ程だった。急流には、赤いカツカ(カジカ)や黒カツカ、瀬カツカが小石に吸い付き、石の下から頭を出していた。カニもいた。エビもたくさん獲れた。柳の枝を葉のついたまま束ね川の底に沈めて置いた。頃を見てタモを構え水底の柳の束をゆさぶった。柳に集まったエビはタモの底にいっぱい獲れた。 新晴橋の下は急流だった。渦巻き川波をたてていた。ここで泳ぎのできるのは、余程水泳の出来る者か向こう見ずのきかんぼうだけだった。その後、橋は宮古橋と名称が変わった。

閉伊川下流に向かって嘉八屋やトリエイなどの漁業家が軒を並べていた。川岸には鰹船がつき、加工場では鰹切りや鰹節の製造で忙しかった。向町の子どもたちはヨコダ(魚籠)の中に切り落とされた鰹の頭からホッツ(心臓)をもぎ取った。これを串刺しにして塩をふり焼いて食べた。 牛馬宿を家業にしている五平屋があった。いつも2、3頭の牛が啼いていた。宮古橋のたもとには豊藤や、中瀬の角から向町にあった近七屋、その筋向かいには藤善などがあった。

当時は自転車が宮古橋や山口川によく落ちた。片桁通りと中瀬通りは真ん中が山口川で狭かった。本町から突っ走って下りて来る自転車と片桁通りから来た自転車が、どちらかに曲がろうとするとよく衝突した。これを避けようと石垣から川に落ちるのが多かった。自転車が川に落ちる度、野次馬が集まった。今の自動車の交通事故に集まる野次馬と同じだった。

あんば祭りや八幡様の祭りでは、屋台は全部向町に集結し、向町から繰り出すのが例だった。向町消防第二分団ではいつも鍬ヶ崎の芸者踊りの屋台を出した。屋台の上には、キュウベイコ(※注)が乗った。町に張られた電線が、屋台の屋根に引っかかるからこれをはね上げて通られねばなかった。ところがその電線に、はり飛ばされてキュウベイコが山口川に落ちてしまった。祭り見物の大群衆は祭りよりもキュウベイコの方が心配やらおかしいやらで騒動になった。そのキュウベイコがケガひとつしなかったのは幸いだった。

※注・キュウベイゴとは山車屋台の屋根に乗って電線などを捌く係りの人を差す名称と思われます。この記事の元になっている話を語った人はかなり高齢であり詳細は不明です。

片桁通りの思い出

中央通りの地下を、音もなく流れている山口川も、その昔は美しく澄み切っていた。川魚の群がりオゲェ(ウグイ)獲りはタモを立て、子どもらが川上から、青竹で水をたたいて追い出すと、オゲェがタモにいっぱい入ったものだった。ウナギなどもほしければなんぼでも釣れたものだ。ウナギはその頃、誰も食べない風習があった。ことに漁師や漁業家は、どうしたことかヘビやウナギなどの長いものを避けた。竜神様につながるためだろうか。縁起担ぎも猿などに至っては呼名さえ変えたもので『猿』は『去る』。大漁が去るから吉祥のように恵比寿と呼んだり、ましら(猿)と言った。

「宮古片桁の槻の木のカラス 金がなくともカオ(買う)カオと」こんな俗謡があるが片桁通りの裏山には、槻の木の大木が繁っていた。 片桁通りは昔から宮古の繁華街でご官所通りだった。現市役所分庁舎はご官所で門が残っていた。お蔵ヶ沢には牢屋もあった(現中央公民館)。ここがのちの宮古町役場となった。宮古町役場はお蔵ヶ沢から新川町の下閉伊公会堂に移った。宮古代官所跡に下閉伊郡役所がおかれ、下閉伊支所となり県の合同庁舎(現市役所分庁舎)となった。

宮古の市日は、毎月2のつく日だった。2日、12日、22日。この市日は、向かいの中瀬通りと片桁通りで行われて賑やかだった。片桁通りは、町名改名で、本町1丁目から数えるようになり本町になり、また向かいの中瀬通りは向町の一部となった。

※この話は昭和50年前半向町に在住していた古老の昭和初期の備忘録である。

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