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ラサ工業宮古精錬所

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戦前から戦後、そして宮古の高度成長期を支えたラサ工業宮古精錬所は宮古の経済の要でもあった。当時ラサ工業宮古精錬所・肥料工場に従事、あるいはそれらの関連会社に従事する人は宮古市の人口の中でかなりの数にのぼった。ラサ工業は大正2年、沖縄の南大東島(ラサ島)において燐鉱石を採掘する会社として設立し、島の名前をとって「ラサ島燐砿合資会社」と命名され後に「ラサ工業」となる。製造していたものは燐酸を使った化学肥料で、当時近代化に向かおうとしていた日本の農業に受け入れられ大成功をおさめる。大正末期には東京工場、大阪工場を建設、同時に他の肥料メーカーを吸収合併しながら巨大な企業へと成長する。この頃から化学肥料製造に加え、さらし粉苛性ソーダ硫酸などの薬品製造もはじまり国内鉱山の買収などラサ工業は多角化してゆく。ちなみにラサ工業が田老鉱山を買収したのも大正8年であった。

田老鉱山稼働と精錬工場建設

田老鉱山は元々ラサ工業東京工場で硫酸肥料を製造する原料として硫化鉱を得るため取得されたものだったが、昭和9年根本的な見直しから現地調査が再開された。翌10年、当時の二代目社長・小野義夫氏自らが操業決定を下すため現地入りし、翌々年の11年10月20日、坑道の試運転が行われ休眠していた田老鉱山は新たな出発をすることになる。調査により田老鉱山に眠るとされる鉱床は銅鉱、硫化鉱とされ、後に硫黄亜鉛などが採掘される。これらの発見と予想以上の埋蔵量がラサ工業宮古精錬所の建設に結びついてゆく。
小野ラサ工業社長は、田老鉱業所開業と同時にその産出する鉱石をベースに宮古地区に硫安製造工場、銅精錬所などを主とした工業都市を建設する構想をもっていた。当初の計画では硫安工場の電力は小本川の水力発電でまかなうというものだったが、時局が電源開発や電気事業に対して電力政策が行われるなど結果的には小本川水力発電の計画は実現しなかった。しかし、港と直結した宮古精錬所は着々と建設が進み、昭和12年現在の閉伊川、通称大河原にラサ工業では初めて手がける銅精錬工場建設が開始され2年後の14年火入れ式が行われ、8月より銅精錬の副産物である硫酸を原料としての燐酸肥料工場も稼働開始する。当初の主要設備は次の通り。製銅工場(溶鉱炉及びPS式塩基性転炉2基)、焼結工場(グリナワルド式焼結炉2基)、電気精錬工場(電気分銅及び分銀装置)、硫酸工場(ペテルゼン式硫酸製造装置)、肥料工場(過燐酸石灰製造装置)、集塵装置(コットレル式電気集塵室2ヶ所)、付随施設、微粉炭工場、受鉱舎、風送機室、貯鉱舎、機械修理製作所、変電所、木工場、肥料製品倉庫、電気工作工場、肥料原料倉庫、分析室、硫酸タンク、試料室、ベルトコンベア、所員・工員宿舎、工員合宿所、所員合宿所、日用品配給所などがあった。
田老鉱山からは皇室訪問による津浪被害復興視察のため初期整備された国道45号線もあったが、道幅も狭かったこともあり安定して輸送できる延長約14キロメートルの専用策道を建設、鉱石を鍬ヶ崎貯鉱舎に運び貯蔵した。また、この頃宮古港は第二種重要港湾に指定され、宮古駅からは港湾運送の要となる臨港線が敷かれ、ラサ工業宮古精錬所では藤原地区からラサ工業専用線を引き2台の蒸気機関車で鉱石、製品を運んだ。
第二次世界大戦後、復興とともにさらなる多角化を進めるラサ工業は非鉄金属、鉱山部門の拡充を図るとともに宮古精錬所においては昭和37年ビスマスをはじめ、亜鉛カドミウムなどを生産するプラントが完成、後にインジウムテルルアンチモンなども生産する。この頃が宮古精錬所の黄金時代である。

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