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2014/10 おばらで買ったあのギター

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 中学の頃にギターに目覚めた。ギターが欲しいと親に言ったら父が「ホンダラバ/ならば」「ドッカラガ/どこからか」貰ってきてやると言う。おお、何事も話してみるもんだと天にも昇る思いで数日を過ごした。そして、ほら、使えと言って渡されたのは。「ボクサッテ/オンボロで」ブリッジが浮き上がった無名のガットギターだった。えー「コンナーハヤンター/こんなのはいやだ」と文句を言ったが、無いよりはましなわけだし、かろうじて6本の弦があったので、近所の定時制高校に通っていた従兄弟に音合わせしてもらった。当時のギター入門は何故か映画『♪禁じられた遊びのテーマ』であった。そのテの雑誌付録や教本もあったが、僕は吉田拓郎がやりたかった。すなわち、ギターを美しく奏でるのではなく、ザンガザンガと弾いて歌いたかったのである。なぁにが禁じられた遊びだ、そんな「ムジョコクテ/可哀想で」不景気な音を演奏するためにギター弾いてんじゃねーよ…と思っていた。そしてわかったのは、ナイロン弦(ガット)では「ワガンネーンダ/だめなんだ」という結論だった。おお、ならばこのギターに拓郎や陽水のギター「ミッタグ/みたいに」スチール(鉄)弦を張るんだ、そうすれば雰囲気出るぞとその気になった。しかしながら、ギターもろくに弾けない少年にとって弦の張り替えは未知の世界だった。でもまあ、取りあえず弦を買おう、買わなきゃ何も始まらないじゃないか。という訳で、当時、宮古で楽器と言えば誰もが知っている末広町のおばら楽器へ。おばらの店内にはナイロンにくるまれたギターが天上から数十本も吊してあり、初心者にしてみれば敷居の高い専門店のように見えた。「ショース/恥ずかしい」のをこらえて色の「コクレー/黒い」貫禄ある店員さんにギターの弦が欲しいと言うと「何ゲージ?」と聞かれた。「ゲージって?何?」とおどおどしていたら、「じゃ、これ」と出されたのは茶色の袋に入ったヤマハのヘビーゲージだった。弦に太さの種類があるなんて知らないから出されたものを確か750円ぐらいで購入した。早速家に帰りギターのナイロン弦を外した。ややこしい結び方だったがスチール弦にはポッチがあるからほどけないよう穴に結ばなくてもいいのだ。すべての弦を外し、買ってきた弦を順に張ってみたが巻き方がバラバラだったので糸巻きによって高くなったり低くなる巻方向が違った。しかも、弦が異常に長いためヘッドのところで余った弦が目に刺さりそうで危ない。音合わせはできないからまたしても近所の従兄弟の所へ持ち込んだ。すると、なんだ、こんな時はライトゲージを「ハンノサ/張るのさ」と言われた。ライトゲージは700円だという。ああ、あの店員はちょっとでも高い方を「オツケダンダ/売りつけたのだ」と改めて思った。けれどスチール弦を張ったガットギターを音合わせしてEmを♪ボロロン~と弾いた時は感激した。これだ、これだよ!オレが求めていたギターの世界は。と有頂天になり家に持ち帰って♪さよならを言えなくて、どこまでも歩いたね…と、吉田拓郎の『マークⅡ』を何度も歌った。1973年、中学3年、夏。僕が勝手にデビューした年だった。ただし「オサマゲル/押さえられる」コードはEm、Am、B7、Cの4個だけであった。

 人前で弾くことはないが新しいコードも多少覚え曲のレパートリーが少し増えたころ、僕のギターのブリッジは完全に浮き上がった。最初から浮き気味のブリッジに張力が強いスチール弦を張ったのが原因だった。お得意のEmを押さえるにも指が痛いし、いくら音を合わせても音が変だ。どこの誰だか知らないけれどせっかく戴いたのに申し訳ないが初めて僕が手にしたギターはここで廃棄となった。だって、僕が欲しいのはアメ色のピックガードが付いたフォークギターなのだから。夏の間、ちょっとした測量のアルバイトをやったので1万円ほどの蓄えがあった。そして冬、お年玉と合わせて念願のフォークギターを手にした。ヤマハのFG130、13000円であった。3ヵ月後には高校入試が控えていたがすでにそんなのどうでもよくなっていて、試験落ちたらギター担いで自転車旅行でもしようと思っていた。この頃すっかりはまっていたのは井上陽水でお得意は『東へ西へ』だった。♪昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ…と何かに不満でもあるようにギターをかき鳴らしていた。

 運良く高校は受かった。クラスは最悪の男子クラスだった。けれど、僕の他にもギター弾きがいて、ギターを通しての友だちも増えた。どんな曲を聴いてどんな曲を弾いているのかなど話しているうちに「ホンダラ/ならば」グループを作ろうということになりアマチュア音楽活動が始まった。ヤマハのFG130は僕になくてはならないギターとなった。高校を卒業する頃僕のギターはフェルナンデスというメーカーの3万円ぐらいのギターになっていた。文化祭や予餞会で楽しく演奏しては短い春を謳歌していた。

 そしてあれから長い月日が流れた。バブルの時代が終わり、指の皮も「ヤーコグ/柔らかく」なりもう本格的にギターは弾かないだろうと思っていたのに、盛岡のリサイクルショップで中学時代バイトとお年玉で買った同型のギター・ヤマハFG130を見つけた。なんだかこのギターを弾けばあの頃が蘇るじゃないかなと思い2000円で購入し早速弦を張った。Emを鳴らすとなんとも言えないチープな音がした。それはどこかに置き忘れたようなあの頃の思い出とともに心に染みた。

 音楽はまさしく心の栄養だと思う。楽器は若さを保つパートナーであり自分の技量を知らされるバロメーターだ。けれど落ち込むことはない下手でもいいからいつまでも演奏を続け音楽を楽しみたいと思っている。先日、左には「アダリッタグネー/左半身不随はいやだ」ととあるギター弾きが言っていたが、この歳になると音楽を続けるためには高価な楽器より健康な身体があってこそが一番だ。すでに若さで押し切れる時代が終わっていることを肝に命じなければならない。

懐かしい宮古風俗辞典

ほんでーね

それではね、じゃあねと同様。宮古流の別れの挨拶。同様の意味で使われるものに「ホンダラネ」「ホンダラバ」もある

宮古人が人と別れる際に使う言葉や挨拶はその年代によっても違うが、単にさようならが訛った「サイナラ」だけではないようだ。用件や目的が達成、あるいは完了され相手のテリトリーから辞す場合、別れから次の再会までも意識した「ホンデー」「ホンデーネ」を挟んだうえで「サイナラ」の挨拶をするようだ。また、相手と親しい場合や、翌日などに確実に再会するような関係、例えば友だちや会社の同僚などの場合は「サイナラ」を省略して「ホンデー/それじゃぁ辞します」だけの場合もある。だからこのような親しい者同士が別れる際には、男①「ホンデー」と声を掛けると男②も「ホンデー」と右手を挙げて応答したりする。なにげない会話だが「ホンデー」の中には「オモッソガッタガナ/楽しかったね」「コワガッタガナ/疲れたね」「アスッタモナ/明日もな」という含みが詰め込まれている。メールで「楽しかったけどちょっと疲れたね、また明日も頑張ろう」と打ち込んで各自に送信すれば気持ちも伝わるだろうが、宮古人なら別れ際に「ホンデー」と威勢良く声を掛け合って散会したいもの。仲間を感じるコミュニケーションって本当は短い方言の中にあるものだと思う。

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