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2014/07 再建立された宿浜の石碑

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 宮古湾西岸の海岸線は浄土ヶ浜の北に位置し田老まで小さな入江と岬が連続しており各浜とも様々な表情を持つ美しい海岸線であり、そこに住む人々がささやかな沿岸漁業で糧を得ていた。しかし、それらは今回の津波で大きく被災し無残な姿となった。加えて漁港や道路の被災で近年後継者不足から先細りであった沿岸漁業も一気に下降し担い手を失った。

 東日本大震災による津波によって一変した宿浜に立ったのは震災後10日過ぎぐらいだった。宿浜、中の浜、女遊戸海岸は自宅から近いのだが、浜までは長い曲がりくねった下り坂だ。帰路はそれが登り坂に一変して自転車だと心臓破りの道程となる。それでも震災後自転車で何度も訪ねて被災した漁港やキャンプ場などの写真を撮った。現在、宿浜と中の浜はトンネルでつながっているが、昔は岩場に沿って作られた遊歩道が通行手段だった。その遊歩道宿浜入口の岩場に2基の石碑があった。どちらも港安全と大漁の神として八大竜王と若宮神社を祀ったものだった。しかし、震災後この2基の石碑は津波で流されて行方知れずとなった。震災から半年ほど経って津波で流れた石碑を取材するため再度この附近を散策した。すると石碑が建っていた位置から15メートルほど山側に入った草むらで倒れた石碑を発見した。石碑は破損していたが幸いにも表面を上にしていたため発見できた。とは言え、自分ひとりで起こせるほど軽くはないので、再建立される日を願って宿浜を後にした。現在、その石碑は元の位置に再建立されている。石碑は破損したままの姿で(若)宮辨財天、(八大龍)神供養の文字が読める。破損した左部分には、亀岳大明神と刻まれていたがそのピースは見つからなかったようだ。資料によれば、背面に嘉永四年(1851)の年号と藤井某氏など、江戸末期の姉ヶ崎建網の関係者の連名があるはずなのだが、破損により判読はできない状態だ。また、並んでいたもう一体は残念ながら発見されなかったようだ。

 次の石碑も宿浜にあるもので、震災による津波で一端流されたものを再建立したものだ。石碑は一般民家の氏神として祀られた稲荷神社の両脇に建っており、馬頭観世音の石碑は大正十一年(1922)旧三月廿日、佐々木作太郎とあり、山神・水神塔の方には昭和八年(1933)旧十二月十二日、納人、佐々木平次郎とある。2基は朱のペンキで塗られた稲荷神社の祠の両脇にあり、祠の中には旧端午で飾った新しい御幣と小さな棟札があった。社はかつてこの場所にあった母屋の裏手にあったのであろうが、今はそこに家はなく社のみが残る。周辺を見回すと陶磁器のカケラなどの生活痕跡がありかつての平穏な暮らしと人の営みに心が痛む。

 次の写真は石碑ではなく変わった神像だ。この神像が納められた祠も宿浜にあり、やはり一般民家の氏神として祀られたもので、被災後に母屋が解体撤去され道路から目視できるようになったものだ。社は稲荷社特有の朱色に塗られたものではないが、神像を見ると二匹の狐の上に何かが乗っているような意匠にも見てとれる。これが狐に乗った女神であればダキニ(荼枳尼)天という稲荷神であるが、像は素人によって手彫りされたと思われるもので断定はできない。また、ダキニ天であっても女神が乗る狐は一匹であり意匠的にも不思議だ。

 ダキニ天は、弁才天、歓喜天のように仏教(胎蔵界・金剛界両曼荼羅)において天部と称される位置に配置される仏で、元々は仏教が他の宗教を吸収しながら改変してゆくうえでバラモン教やヒンドゥー教など仏教以外の宗教において崇拝されていた神を取り込んだものだ。同様に帝釈天、韋駄天、毘沙門天、大黒天なども同様の天部に位置する仏とされる。

 稲荷神は古事記や神話にも関係する古い神で稲作と強く連動している。近世においては伏見稲荷、豊川稲荷、諏訪稲荷などが商売繁盛から大漁祈願まで多くの信仰を集め小祠となって全国に散らばり個人持ちの神社として現在も信仰されている。狐は稲荷神が使役する動物として崇められており、狐を模した稲荷神社の狛犬は何でも願いが叶う如意宝珠、巻物、蔵の鍵などを咥えており豊穣をイメージさせる。氏神となっている神社の小祠は朱に塗られたものが多く、赤い祠を見ればほとんどが稲荷神、あるいは過去に稲荷を祀った祠であることがわかる。

 宮古市においての著名な稲荷神社は義経北行伝説にも関係している、沢田の判官稲荷神社、磯鶏神林の磯鶏稲荷神社、高浜稲荷神社、狐のミイラと宝くじ当選の都市伝説をもつ金浜稲荷神社、旧盆の最終日が縁日で又兵衛伝説にも関係する津軽石稲荷神社などがある。どの神社も本来は海上安全と大漁祈願の御利益がある漁業の稲荷神社であろう。

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