Miyape ban 01.jpg

2014/04 インドア石碑順禮2

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

~江戸末期の謎の石工亀次と亀治をめぐる考察~

 平成5年本誌石碑コーナーにおいて『石工亀次をたずねて』という企画連載をした。亀治は江戸末期の弘化年間から幕末明治までの約20年間にわたり、宮古地区に石碑を残した名工とされ、その石碑には独特の抽象化した亀マークがあり「亀治」と「亀次」を使い分けているとされた。当初は宮古市合併前だったため旧宮古市管内から亀次・亀治(以後・亀次統一)の名がある石碑、石宮、狛犬などの写真と亀次部分の拓本で誌面を構成した。当時の宮古管内にある亀次の石碑数は限られていたので連載は一年を待たず終わり、亀次と亀治の謎やその分類や人物像も推測できないままであった。しかし、現在は平成の大合併を経て新たに川井村と合併した宮古市の石碑数は大幅に増え、これを調査し把握するため宮古市教育委員会では新たな石碑調査を行っている。そんな中で平成22年に刷新された『宮古市の碑(いしぶみ)』が発刊され田老・新里地区の石碑が追加された。そして、現在は川井地区を含む国道106号沿いの石碑が調査されておりその中には多くの亀次の石碑があり、若干ではあるが石工亀次の正体に迫るプロットが見えてきた。今回は先月号に続いて積雪でフィールドワークができないことから、これまで宮古市教育委員会が調査してきた石碑データを借りて亀次の謎に迫ってみよう。

 現在まで確認されている石工亀次(亀治)の石碑や石宮などは35基があり、これを建立年代の古い順に並べたのは左の表だ。これによると下川井坂本地区にあ神社仏閣拝礼塔が最も古い弘化2年(1845)で、最も年代が若いのが慶應2年(1866)の川井鈴久名大聖玉串神社にある養蚕塔となる。しかし、これはまだうわべだけの数字であり、面積も広く山深い川井地区にはまだまだ亀次の石碑が眠っている可能性があると思われる。また、この表の最後尾になっている千徳八幡宮手水鉢には年代や十干の彫りがないため年代不明だが、千徳八幡宮には亀治銘の嘉永5年の狛犬があることからこの年代あるいは前後に奉納されたと考えてよいだろう。また、安政2年(1855)に建立された川井箱石の好心寺境内にある念仏塔は下部がアスファルトに埋没しており亀治のロゴマークである亀の彫りは確認出来るがその下にある「次」「治」が見えない状態だ。備考部分では石碑に施された陽刻等を絵入りとして表記した。彫りは念仏塔関係では蓮、馬頭関係は馬で、石宮では庇部分に波ウサギなどの意匠があるようだ。

 これらの石碑は弘化2年から幕末明治の慶應2年までの21年間のもので、これより古い物、また新しいものは存在していない。このことから石工亀次とは特定の人物であり、それは一人であったのか?それとも亀治という人物と亀次が別々に存在したか?などと昔から郷土史家らが模索しそれぞれの仮説で文章を書いてきた。その中にはどのような資料を探ったかわからないが、千徳に亀次という名工がいたとか、津軽石に沼里亀次なる石工がいたなどという説も多々あるようだ。亀次の石碑の特徴である亀マークを比べると尻尾部分が下に下がったものと上に跳ね上がったものがある。これは下がったマークは亀次に多く上がったマークは亀治に多いようだが、その特徴が混同したものも数基ある。日付け記載においてはおおまかだが吉日と吉祥日に分けられ、吉日は亀次、吉祥日は亀治が多いがこれも特徴が混同したものがある。だが、碑文は願主が持ち込むと思われ石工が自由に変えられるものではないだろう。筆跡は基本的に石工ではなく僧侶など宗教者のものであろうが、その文字を石にレイアウトしたのは石工であろうと思われる。装飾の陽刻も石工の意匠だがこれらの追加作業は願主の依頼であったか、石工の気まぐれであったか、それとも料金によって細工が違っていたのか…などなど亀次の謎は深まるばかりだ。

 そこで前述の不明点や石碑意匠を個人の仕事ではなく、亀次あるいは亀治という石工集団の仕事であったと考えるのもひとつの手段だ。亀のロゴマークは今で言う意匠登録であったとすればどうだろう。亀次・亀治は人の名ではなく屋号であったと考えると判りやすい。すなわち、亀次は腕利きの石工集団であると同時に、そのブランド性と営業力があり、江戸末期の宮古通り閉伊川筋の村々で多くの石碑発注を請け、明治期には衰退したのではないだろうか。明治期には廃仏毀釈等の宗教改革もあり石碑建立が滞ったのか、逆に天照大神の石碑が量産されたのかは判らないが、明治年号の亀次の石碑はまだ見つかっておらず今後の調査が望まれる。

表示
個人用ツール