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2013/12 津波記念碑と慰霊碑 その2

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 今月は先月に続いて震災後各地区に建立されている津波記念碑や供養塔を紹介する。今回は外洋に面し明治から昭和の津波でも大きな被害を被った重茂半島に点在する各地区に限定して巡ってみた。

 重茂半島の海岸線は太古の時代の地殻変動により隆起したと考えられ、東側にせり出した重茂半島に小さな岬がいくつも連なったリアス式で、山が海岸ぎりぎりに迫り海底に落ち込んだような地形が多い。そのため平地は極めて少なく漁港として使われてきた入江も少ないが、そんな僅かな丘陵地に人が住み後には集落が発生した。重茂を統治したのは鎌倉期からこの地に舘を構えていた重茂氏で、南部氏の家臣として半島を支配し江戸末期には外来船を監視する遠海番所が設置されていた。維新後は重茂村となって、明治35年には外洋航路安全のためにとどヶ崎に灯台が建設された。戦後昭和30年、重茂村はに宮古市と合併している。

 明治29年、昭和8年の三陸大津波、昭和35年のチリ地震津波で大きな被害を出した重茂地区には津波の義援金で建てられた津波記念碑が多く建立されている。記念碑は大海嘯記念碑、津浪記念碑などの文字があり津波の詳細や教訓が刻まれている。その中で最も有名なものが姉吉地区にある津波記念碑で、そこにはこの石碑より下には家を建ててはならないという過去の津波被害に直面した人たちの警鐘の言葉が刻まれている。現在もこの石碑は姉吉地区から漁港へ向かう道沿いに建っているが、建立当初の昭和8年以後、港湾整備、道路整備などで何度か移動しているようだ。

 さて、今回最初に訪れたのは鵜磯地区に建てられた記念碑だ。この石碑は先月もこのコーナーで紹介した宮古東ロータリークラブが建立したもので、正面に津波到達地とあり、右に設置支援下関ロータリークラブ、左に敷地提供者、野崎泰司氏とある。(宮古東ロータリクラブの津波石碑に関しては先月号参照)重茂半島にはこれと同様の石碑が音部大神宮石碑群(設置支援下関ロータリークラブ、敷地提供者、佐々木正男氏)、重茂里地区公葬地(設置支援界東ロータリークラブ、敷地提供者、自治会)、千鶏神社下(設置支援界東ロータリークラブ、敷地提供者、高屋敷民夫氏)の計4基が建立されている。

 これに対して次の写真は重茂里公葬地にあるもので、元村自治会が建立した津波記念碑だ。碑は上部が円形になった板碑で、正面中央に大津波記念碑、右に大津波到達地点、東北地方太平洋沖地震津波、平二十三年三月十一日、左に後世への訓戒、大地震の後には津波が来る、とにかく高い所へ逃げろ、住宅は津波浸水線より高い所へ建てろ、命はてんでんこ。と刻まれている。裏面には地震後約30分で大津波が襲来したこと、漁船や家屋など津波被害の詳細と犠牲者への鎮魂の文があり、平成二十四年三月十一日、元村自治会と刻まれている。

 次の石碑は姉吉地区にあるもので、宮古東ロータリークラブが市内各地に建てた津波到達地の石柱に類似しているが、こちらは姉吉観音讃仰会が建立したものだ。石碑は先端が四角錐になっており、宮古東ロータリークラブのものと見分けることができる。正面には平成二十三年三月十一日、津波到達地点、裏に姉吉観音讃仰会、南地区自治会、左に平成二十四年七月とある。これと同様の石碑は、千鶏、石浜、川代にあり重茂地区の観音講が協力しあって4地区に建立したものだ。千鶏の石碑は本誌2013年5月号の本コーナーで取材した、津波後の重茂石碑順禮で紹介している。石浜の石碑は県道41号線宮古~山田線の沿線にあり、石浜地区元村の最深部に架けられた橋の袂に建立されている。川代地区は宮古市と山田町の界となる地点だが、先碑が建てられた場所は小さな青線と橋があり、橋の北側袂に、ここから宮古市の標識が建っている。これに対し石碑は橋の南側から山田寄りの道路沿いに建てられいる。津波到達地点は市町村の界には関係ないが、重茂地区観音講の石碑が山田町にあることになる。

 この他にも今回の震災に関しての石碑やモニュメントは数多く建立されており、まだ知られない物、墓所等に建てられた個人的な慰霊碑や記念碑はかなりの数にのぼるだろう。これらもの云わぬ石碑群が、人の心の中でいつかは風化し忘れれてしまう東日本大震災を語り継ぐきっかけになってくれればと心から願うものである。

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