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2013/08 川井地区の石碑順禮

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 北上山地のほぼ中央部に位置する川井地区は閉伊川とその支流に点在する山峡の集落が多く広大な面積に対して人口密度はかなり低い。藩政時代は盛岡~宮古間、遠野~宮古間の中間にある要所の駅として旧役場のある元村周辺は大いに栄えたが、戦後の林業や炭焼きの衰退とともに人口の減少が続き平成22年に宮古市と合併した。今月はそんな川井村の新旧の石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は江繋から早池峰山小田越登山口を経て花巻市大迫へ向かう県道・江刺江繋線沿いにあるタイマグラから、薬師川を渡り横沢を経て国道106号線に接続する大規模林道の峠にある記念碑だ。碑はタイマグラから登ってくる林道の頂上にある「希望を拓く道」と名付けられたトンネルを出た右側の緑地にあり、中央に、希望を拓く道、心をつなぐ路とあり、右に幹線林道川井・住田線竣功記念碑、左に川井村長、内舘勝則謹書、裏面に遠野市長、一関市長、住田町長、川井村長の各連名と平成二十一年十一月吉日の年号、川井村とある。この道路は箱石~横沢~タイマグラを結ぶ林道であり早池峰山を中心とした観光道路として利用されているが、冬期間は小田越峠がある江刺江繋と同様に季節閉鎖となる。

 次の石碑は川井箱石地区にある顕彰碑だ。碑は明治期に建立された碑と、その副碑の二基で一対となっている。これは明治期に建てられた石碑が漢文であり風化により彫りが荒れ読みにくいことから、先人の功績を判りやすく後世に残すため副碑が建てれたものだ。写真は現代の明朝体で刻まれた副碑であり、右に吉田市十郎功績記念副碑、本文には氏が川井村ではじめて養蚕指導を行い、ひいては牛馬の飼育奨励などで村の活力を高め産業の振興に尽力したことを後世に伝え残すためこの碑が建立されたという経緯が刻まれている。行末には本碑大正六年九月六日、副碑昭和六十二年八月一日と記されている。

 次の碑は国道106号線沿いにある木造小学校を改造して昭和レトロを漂わす当時ものを飾ったミュージアムとなっている箱石地区の、昭和の学校の校庭にある石碑だ。この施設は当時の箱石小学校をそのまま使っており碑は昭和60年に同小学校が閉校となり同窓生らが建立したものだ。碑は自然石に御影石のプレートを嵌め込んだもので、右に箱石小学校跡、中央に幾千の同窓学び舎に校風を仰ぎ恩を偲ぶ。と刻まれ昭和六十年三月、川井村立箱石小中学校閉校記念とある。また、この石碑の横には箱石小学校110年・同中学校37年の歴史年表を刻んだ石碑がある。

 最後の石碑は川井の宮古市北上山地民俗史料館に収蔵されている石碑だ。この石碑は平成6年旧川井村時代に当館が開館するにあたり集められた資料の一部で、夏屋地区の大畑巳之吉と氏が私有地に祀られていた山の神の石碑を旧川井村の山岳信仰資料として寄贈したものだ。碑は正面中央に斧と宝剣を携えた山の神が浮き彫りになっており、右側面に嘉永七(1854)寅十二月十二日、左に石工亀次とその独特の亀のロゴマークがある。石碑はマタギや林業の資料や展示物に続き杣人の信仰資料として炭焼、漆掻の道具などと並んで展示され、小国地区で大きな霞を持ち早池峰山信仰とも関係の深い山伏であった小国・善行院関係の修験関係資料へと連動する形で展示されている。

 石工亀次(亀治もあり)が手がけた石碑や石宮は旧宮古市内にも十数基があり以前このコーナーで順番に取材したこともある。また、旧新里村に数基、そして旧川井村エリアにも数基が確認されている。石碑や石宮の建立年代から石工亀次が生きた時代は文政年間から嘉永年間(1818~1854頃)の江戸末期と考えられ、その当時ロゴマークを使ったり牛や馬の陽刻、文字配置のバランスの妙などかなりセンスが良く腕のよい職人と思われてきた。しかし、同じロゴマークに亀治と亀次があることから、同一人物ではなく複数の職人集団だった可能性も考えられる。亀次の分家が亀治を名乗ったのか、亀次あるいは亀治という石工店であった可能性も考えられる。いずれにせよ亀マークの亀次(亀治)の石碑は多くの分岐的仮説と深い謎を孕んでいるのは確かだ。今後は亀マークの石碑が宮古市に隣接する市町村に存在するかどうかによって亀治の謎が少しずつ解明されるだろう。

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