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2013/07 宮古のタクシー今昔物語

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 宮古~盛岡間の閉伊街道を片道12時間かけて「バサ/乗合馬車」が走っていた明治時代を経て大正2年には近代交通機関として盛宮自動車会社による乗合自動車(バス)が登場した。しかしまだ国産車のない時代に、イタリア製フィアット30馬力では難所峠が連続する閉伊街道での時間短縮はたった4時間の片道8時間であった。おまけに閉伊街道は土砂崩れも多く弱った路肩から自動車が「ツクトレルン/転げ落ちる」こともしばしばだった。加えて、自動車旅客運送に関する法律もなく自動車さえあれば誰もが乗合運送業を始めたもので、閉伊街道に40社ほどの業者が名乗りをあげ白タク状態で安全性はさらに低下した。(詳しくは本誌2013年2月号特集・街角備忘録交通編を参照)この頃、乗合自動車のような乗物を庶民らは通称名で「エンタロウ」と「ヨバッテ/呼んで」いたようだ。これは、当時の落語家・四代目橘家圓太郎(1845~1898)が高座に上がる出囃子に乗合馬車で吹かれるラッパを使い人気を博したことから、乗り心地がよくない乗合自動車を乗合馬車に見立てて落語出囃子のラッパと連動させ「エンタロウ」となったらしい。乗合バスを「エンタロウ」と言う年代の人はすでに「イッテル/逝って・他界して」るだうが、祖母や祖父母がバスのことを「エンタロウ」と呼んでいたのを覚えている人もいるだろう。

 さてさて、そんなモータリゼーション創生期を経て自動車は暮らしに浸透してゆく。そして戦後、日本は類い希な高度成長期を迎え自動車産業は一気に花開き国産量産車も登場した。とは言え、現代のように庶民が気軽に自動車を持つ時代ではなく、自家用車を所有するのは開業医の先生様と製材所の社長様ぐらいなものだった。そんな時代、庶民が自動車に乗ると言えばバスとタクシーぐらいなものだった。今月はそんな昭和40年頃のタクシーの話しをしよう。

 さて、宮古におけるタクシーの元祖ははっきりしないが、刈屋自動車が母体となった三社タクシー(以後三社)の創立が昭和28年で、この時代を前後にして川崎タクシー(以後川崎)、宮古タクシー(以後宮タク)も創立したと思われる。ここでタクシーとハイヤーの違いについて記しておく。基本的にハイヤーとはあらかじめ電話などで予約をして客を乗せて運び、逆にタクシーは道肩などに停車したり、街中を流して流動的に客を乗せて運ぶ。例えばハイヤーは結婚式披露宴当日に家と写真館、式場を花嫁と関係者を乗せて移動するために予め予約しておいたり、記念式典などで「エレーサマ/偉い人」の移動にチャーターしたりする自動車だ。タクシーは予約やチャーターではなく駅の構内でタクシー乗り場で客を乗せたり、夜の盛り場で所定の位置で客待ちをして乗せたりする。しかし、この棲み分けも当初はきっちりしていたが、タクシー会社では電話呼び出しや流し、客待ちに対応するタクシーとともに、ハイヤー的利用に対応するため「大型」と称して外車を所有し結婚式などに対応していた。当時の大型車両は、川崎が英国車のヒルマン、三社が英国車のオースチン、宮タクが米国車のシボレーなどで、これらの車両は当時の国産車に比べ「ガイズン/外人」サイズで屋根が高く花嫁さんの文金高島田の角隠しが「ツッカガル/つかえる」ことなくスムーズに乗り降りが出来た。ちなみに新郎新婦撮影のため自社スタジオと式場を往復する写真屋もベンツなど屋根の高い高級車を使用していた。のち、これらの大型外車は国産車の大型化によりクラウンやセドリックなどに置き換えられてゆくのだが、当時、外車はラサの重役かハイヤーしかなかったので街を走れば注目の的だった。

 大型・中型はハイヤーとして使われたが、庶民が利用するのはもっぱら小型と称する4人乗りのタクシーだった。朝一番の列車で盛岡へ行く前日にはタクシー会社に電話をして汽車の時間に間に合うよう予約をした。確か盛岡行は朝5時ぐらいだったから、汽車に遅れないよう迎えに行くのは重要な役目だった。しかも、どこの家でも「デスナ/直前」になってあれがない、これがないと大騒ぎするから時間的余裕を加味して行かなければならなかった。急病や「ワラス/子供」が夜中に熱を出せばやはりタクシーを呼んで行きつけの病院の戸を叩いた。また、霊柩車のない時代だから病院から自宅まで亡くなった人を運ぶこともあったようだ。そして退院などの際には唐草「フロスギ/風呂敷」で「ユッキッタ/結んだ」衣類や布団をタクシーのトランクに詰め込んでゲートが「スマンネーママ/閉まらないまま」自宅に帰ったりもした。あの時代、そんなあらゆる生活のシーンにタクシーがあった。

 その頃各タクシー会社にはトヨエースの800CC水冷エンジンを積んだトヨタコロナ、通称・だるまコロナや、オースチンを模して製造された日産ブルーバードなどの小型車が5台ほどあって、運転手が代わる代わる24時間フル稼働していた。初乗りは時代によって微妙に違うが昭和40年代初期で70~80円程度であった。深夜の飲み屋で怪しげなカップルを乗せて磯鶏や津軽石の旅館へ運び、翌朝の迎えを予約されたり、市内の某所で催されているという花札賭博の客らしき人を運ぶこともあった。歌謡ショーがあれば芸能人を、相撲興行があれば関取を、事件があれば警察が聞き込みにくることもあった。タクシーがあらゆる人生を乗せて走った時代であった。

 夏の観光シーズンになると宮古駅に観光客が溢れた。お目当てはもちろん浄土ヶ浜なわけでタクシーもフル稼働で宮古駅と浄土ヶ浜を一日に何往復もした。しかし、浜への道は未舗装で石英粗面岩の砂利と白い土ぼこりがもうもうと立ちこめる悪路だった。バスの後ろになってしまえば、濃霧のような土煙の中を走らねばならなかったから夏は窓全開のため運転手も客も真っ白になった。そして運転手泣かせなのがパンクだった。特に浄土ヶ浜の石は鋭角的だったので頻繁にパンクし、ひどい時には一日に何度もパンクした。だが、それが当たり前の時代だった。  

ためになる宮古弁風俗辞典

たんぱら

気が短く怒りやすい性格。短腹(たんぱら)と書くと思われる

「絡まった糸ををほぐしたり、薄い紙が静電気でくっついて離れなかったり、小魚の小骨がうまく取れなかったりすると、短気な人はすぐに頭に血が上り不機嫌になる。ああ、ここは大人なんだから我慢しなければ…と思いながらも「アーリイェイ/ちくしょう」とか「イーヤマツトモハー/どうしようもねぇな」と眉間にシワを寄せて怒ってしまう。そんな短気で怒りやすい人を「タンパラ」と呼ぶ。「タンパラ」は「短腹」と思われる。腹とは「腹黒」などの言葉と同じで「腹」とは実際の腹ではなく腹心の意味で精神指向を意味する。腹が黒いで小ずるく卑しい人、腹が短いで、短気で血の気が多い人という意味になる。ちなみに、宮古人は浜気質の血が濃いためか男も女も「タンパラ」な人が多くじっくり構えるのが苦手だ。同時に決断や諦めも異常に早く金銭的、商売的にも損をする傾向が強い。待てば海路の日和りあり、荒れた海も日が経てばまた穏やかになるものです。

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