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2013/06 長町方面の石碑順禮

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 昭和46年山口川放水路が閉伊川に注ぐ一番最後の橋である●●●橋が架かり、国道106号バイパス建設がはじまった。当初そこは畑が広がる農耕地帯で山口川放水路、近内川のふたつの河川が横山八幡宮裏で閉伊川に合流していた。このあたりは俗称で八幡河原と呼ばれ、宮古の随筆家・山根英郎氏の著書『湾頭の譜』によれば昭和4年、宮古飛行大会なる催しで八幡河原から複葉機が離発着し2日間のイベントで2万人が見物に集まったというから、それだけ広い河原だったことがわかる。106号バイパスはそんな河原や畑を真っ直ぐに進み近内川が流れる千徳地区との境まで整備された。当初道路は未舗装で雨が降れば水たまりだれけの泥道だった。しかしこのバイパス沿いは将来的に見ても有望な土地であり市内の各企業が進出した。中でも象徴的なのが当時のボーリングブームからオープンした初のボーリング場・みやこボウルだ。その後、昭和●年、近内川に橋が架かり宮町と千徳がつながり新しく長町が誕生した。今月はそんな比較的新しい町のバイパス沿いの石碑を探して歩いた。

 最初の石碑は長町の水道公園に併設した園地の中にある先端が尖った将棋の駒を模った石碑だ。この碑は平成4年に開催された三陸博において清水市代女流棋士(当時・女流王将・石碑建立時に女流四冠)が三陸博宮古会場で開催された三陸将棋祭りにおいて子どもたちを相手に百面指しを行い、石碑はこの時に使用された丸太の将棋盤を擬木で再現し三陸博開催から10周年となった平成14年7月に園地内に設置したものだ。この経緯を記した碑文と宮古市子ども会育成会、宮古岩手ライオンズクラブ、陸中宮古ライオンズクラブ。施工、熊谷石工所・熊谷久の名が刻まれている。

 次の写真は水道公園入口にある三陸博のマスコットキャラリアスくんをあしらったモニュメントだ。近年はゆるキャラと称して、ご当地発信型のマスッコットキャラクターが人気だが、三陸博が開催された平成4年頃はイベントを印象づけるマーク的扱いだったため、多くのキャラは作られたが立体化するキャラはごく稀だった。そんな時代の中でリアスくんは数少ない立体化キャラのひとつだ。当時、印刷物で展開されたリアスくんを見るとありふれたデザインではあるが、立体化までを見込まれたキャラとすればかなりな点でゆるキャラ度をクリアしており完成度は高い。今の時代に着ぐるみ化すれば子どもたちの人気になりそうだ。さてモニュメントはリアスくんがあぐらをかいて船に乗った姿で、船にはさんりく丸の名があり後ろにこのモニュメントの由来と、三陸博から10周年を記念し平成14年7月に設置したという経緯を刻んだプレートが嵌められている。設置者として宮古市子育連、刈屋裕之、和川時章、施工沢与建設の名がある。なおリアスくんは三陸博開催前時から終了後まで宮古地方振興局入口に飾られていたが10周年を経てこの水道公園に移転し新たなメモリアルモニュメントとなったものだ。

 次の石碑は水道公園隣の宮古市水道事業所敷地内にある水神碑だ。石碑は同事業所落成を記念して建立されたもので、中央に水神碑、宮古市長中居英太郎書とあり大きな自然石の台座に乗っている。台座背面には施設建設に関わった業者の名前、宮古市内(当時)の水道事業者の連盟が刻まれ、平成三年十一月吉日建立とある。建設に関わった業者や水道業者の名称には今は存在しない業者や企業名もあり改めて時代の流れを感じる。

 最後の石碑は上鼻の震災仮設住宅裏にある。石碑は花崗岩に鋳造した金属プレートが嵌められている。プレートには陽刻で日本電工宮古工場跡地、日本電工株式会社・宮古工場OB会とある。現在千徳大橋が架かっている千徳側の袂附近の土地の殆どは日本電工宮古工場の敷地だったが、工場が撤退し跡地は多くの企業や宮古市が買い受け現在に至る。日本電工株式会社は大正14年に操業を開始した鉄工大手メーカーで本社は東京にある。戦前は大同製鋼宮古工場として千徳に大工場を建設し鉄合金を製造していた。戦時中には岩手県出身の海軍閣下米内光政が宮古地方を訪れた際、当時千徳出身の高橋寿太郎衆議院議員先導役で視察している。戦後は日本電工宮古工場として多くの従業員を抱え地域経済に貢献したが昭和●年宮古市から撤退した。石碑は当時の従業員等がこの地がかつての工場であった証しとして建立したもの。石碑、プレートには建立月日はない。

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