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2013/04 マンガ家?そんな夢を見た時期もありましたね

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 昭和33年の春、少年はこの世に生まれた。ちなみに震災で解体された今は無き大通のM産婦人科で帝王切開により産声をあげたと聞かされた。少年が生まれたこの年はオリンピックを控え近代日本に向けて赤線廃止とともに売春禁止法が制定された年であった。、その後少年は小学校入学までの短期間にこの狭い「ミヤゴマズ/宮古市内」で何度となく転居を繰り返し、紆余曲折を経て歳月が流れた。そんな環境で「オガッタ/育った」せいか少年はヘラヘラして斜に構えた「コエラスグネー/かわいげのない」ガキになっていた。しかし、当時はそんな過酷な家庭環境の「ワラス/子供」は大勢おり悪ガキとして地域でカリスマ性を発揮するほどの才覚はなかった。
 あの頃少年たちの大好物は巨人・大鵬・卵焼きそして怪獣・ドリフターズ「マンガ本」であった。しかし、少年の家は父親が阪神ファンで相撲も柏戸派だったため、やはり一家揃って斜に構えてしまい世間の流行に乗れずに孤立していた。当時、親がマンガ本を買ってくれるのは「カゼーヒーデ/風邪をひき」病院に行った帰りに「マンガッコガ?モモカンガ?/マンガ本がいいか?桃の缶詰がいいか?」と二者選択に問われ、末広町の吉田書店あたりでマンガ本を買ってもらうのが関の山だった。その他にはお盆に帰省した変な標準語を話す「オンツァン/おじさん」に買ってもらうとか特別な時だけで、週刊マンガを毎週買ったり単行本を揃えたりするなんて金持ちのお坊ちゃんにしか叶わない夢と思っていた。
 そんなマンガ本に渇望していた時代だったから、当時は市内の色々な所に貸本屋があり、少年は母親の実家がある「キューダデ/愛宕地区」の貸本屋へ通っていた。当時の貸本システムは「コレカステ/これ貸して」「アサッテノユーカタマデネ/明後日の夕方までね」というやりとり程度で10円ぐらいのお金を払った。現在のように会員証などないから貸本屋のおばちゃんが顔を「ワガッテル/覚えている」人のみに貸したのであろう。マンガ本はクラフト紙のような茶色の紙で表紙、背、裏表紙を覆ったカバーがしてあり「ムジョコク/無情にも」ご飯粒で糊付けしてあったため少年たちの購買意欲をそそるかっこいい表紙は貸本屋のおばちゃんの手作り表紙と題字で台無しなのであった。店内にはこれらのマンガ本の他に堅い表紙がついた貸本専用のマンガ本もあった。これらは週刊物とちがって1本のマンガで完結した書籍でありなぜか忍者とか時代劇をテーマにしたものが多かった。著名な作品に『赤胴鈴の助』などがあり、NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』で主人公が描いていた『墓場鬼太郎』などはこうした貸本から出世した作品だ。
 貸本屋にも暗黙のルールがあって最新刊は高学年のガキ大将が優先的に借りてしまうので、僕ら低学年のぺーぺーに回ってくるのは表紙が「ボクサッタ/おんぼろで」手垢で「コキタナグナッタ/小汚くなった」時代遅れでオチも古く笑えない貸本とか、懸賞の応募券やハガキが故意に切り離された週刊マンガばかりだった。
 そんな無邪気な時がたおやかに流れいたが、時代は高度成長を迎え日本人の生活水準も高くなった。世の中は1970年の大阪万国博で盛り上がっていた。ひねくれた少年もいつしか小学校高学年で貸本だけでなくたまには「コヅゲーセン/お小遣い」を貯めて週刊マンガを買うほどになっていた。そして、こんなにマンガが面白いなら自分で描いてみようと思い始めたのであった。しかし、描くと言っても何をどのように描くのか?「カミコ/紙」は包装紙やカレンダーの裏でいいのか?と疑問は膨らむ。そんな少年の興味に即座に答えてくれるのが小学館の入門百科シリーズだ。早速、末広町吉田書店で同社刊の『まんが家入門』を購入し漫画家になるべく一人勉強をはじめた。何何?起承転結?何だそりゃ?アミかけ?遠近法?ケント紙?からす口?Gペン?あーあ、めんどくせ。やーめた。少年は生まれながらにして「アギヤヅ/飽きやすい奴」で「セッコギ/面倒くさがり」であった。本筋とは関係ない部分にこだわって重箱の隅を「ツッツグ/つつく」タイプであり、自分の無力さを人のせいにして現実逃避するのだった。この時も2B、5Bの「エンペズ/鉛筆」が手元に無かったため基本を飛ばし読みし勝手に壁にぶち当たっていた。それでもマンガを描きたい気持ちは失せていなかったので、今度は末広町の、とみや文具店でGペンというペン先を買った。これを挿す軸やインクは家にあったのでペン先だけを買ったのだ。ペン先には「G」のアルファベットがあり、相変わらずひねた性格だった少年は「G」があったら「ABCDEF」があっても「イーベーガ/いいだろう」と心の中で叫んでいた。
 ペン先だけ買うという行為が格好良くて充分満足したが、買ったからにはこれでマンガを描かねばと勇んで帰り、近所の「ミセヤ/雑貨屋」で奮発して高い画用紙を買った。家にあったインクは青だったがとにかく何か描かねば気が済まない雰囲気の中、まずは当時大得意だった『巨人の星』の花形満を描いてみた。ん?何?これ?下手じゃん。似てないじゃん。じゃぁ人物はやめて『サブマリン707』を。ん?何?これがオレの絵?せっかく曲線が太く強調されるGペンなのにまったく上手く描けない、つうより、むしろ下手。おまけにインクはボタボタこぼす。そして少年は自分が漫画家に向いていないことを瞬時に悟った。
 転校先の同じクラスに絵が上手い奴がいた。あの花形満なんて顔だけでなく上半身まで上手に描いていた。ある日彼に「オメー/お前」漫画家に「ナレンデネーノ/なれるんじゃない」と聞いたら「ヤッター/嫌だ」と言う。すでにマンガが甘くないことを充分に知っていたのかも知れない。その後も少年のマンが好きは衰えず、当時創刊した少年ジャンプ(集英社)連載の『ハレンチ学園』に夢中になり、繰り広げられるスカートめくりと「ハダガエッコ/裸絵」」に心ときめかされるのであった。漫画家?そんな夢を持った時期もありましたね。遠い思い出で「ゴゼンス/御座います」。

ためになる宮古弁辞典

そーりょうのずんろぐ

跡目を継ぐ長男なのにぱっとしないという言い回し。

 「ソーリョウ」とは「総領」でありその家の代表または将来的に代表となる人。「ズンログ」は人名で「甚六」を意味する。従って「ソーリョウノズンログ」は「総領の甚六」が訛っただけの言葉であり発生は古典的な例え話を方言で表現したもので純正な宮古弁ではない。総領は長男のことで、その家の当主にとって最初に生まれた子供なので「メンコチョンコ/ただただ可愛がり」に育てられ最終的に成人しても世間知らず多いのだという。「甚六」はお人好しでのろまな人を意味し、古典落語や江戸小話などに登場する若旦那的人物の別称だ。宮古弁で言う「ソーリョウノズンログ」はどこぞの家の長男息子に対して、緊急時にもおっとりとしていて垢抜けしない、他人事のように構える気がきかない事を憂いで使われる。しかしながら往々にして他人が「モキモキッテ/イライラして」「ヤセガネー/冷や冷やする」と言う割に、「ソーリョウノズンログ」は持って生まれた天運で難題もクリアしてしまうもの。つくづく一般大衆の評価なんて当てにならないものです。

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