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2013/01 田老日枝神社境内石碑散策

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 万里の長城に例えられたほどの巨大防潮堤でまち全体を防備していた田老地区だったが、今回の津波はその防潮堤を超えて市街地に流れ込んだ。明治、昭和と大きな津波被害で壊滅的損害を被ってきた田老地区はまたしても津波によってまちが破壊された。津波被害から一年以上が経過し、現在、家屋のほとんどは解体撤去され田老地区は港湾整備と瓦礫処理が行われている。そこにはかつての商店街やひしめくように建っていた住宅もない。メイン通りだった国道ですら工事現場の取付道路のようで土煙とともに大型ダンプが行き来する光景が被災地を物語る。今月はそんな田老地区の日枝神社を散策した。

 日枝神社は三鉄田老駅の背後に聳える山の頂上にある田老地区を代表する神社だ。創建や縁起については度重なる津波災害により多くの記録や語り部の口碑を失っており定かではないが、室町時代の文明17年(1485)に修験者大泉坊が村内の者と日枝神社を再建したとされる。また、同年代頃、当時の摂待村(現宮古市)で修験者斉蔵坊なる者が小沼神社を建立している。当時の田老では大上、赤沼氏により統治されていたと考えられている。しかし、中世期の田老に迫る文書は皆無でありその時代、具体的にどのような人物がいたか?どんな統治大系だったかは判っていない。神社建立にしても記録が少なく、江戸期の西国順禮などで勧請した神仏と入れ替わっている可能性もある。

 日枝神社は海に向かって切り立った絶壁の様な斜面をもち、裏手もかなり傾斜のある峰が連なる、西側には神田川が流れ川に沿って扇状地が広がる。このような地形はどう見ても中世の舘跡と考えてよいだろう。摂待地区の小沼神社も同様に摂待川から西側に切り立った絶壁がありその中腹に社があり、やはり中世の舘と思える地勢を特徴としている。どちらも室町期に神社が置かれたとされるあたりも当初は八幡神や観音が舘神として祀られたとも考えられる。 日枝神社に関しては中世期には周辺を統治していた豪族によって舘あるいは砦として機能し、戦国時代を経て、江戸初期に利便性から現在の田老総合事務所(旧田老役場)がある館が森へ機能を移したものと考えられる。だが、これらはすべて推測であり確定的な文書等があるわけではない。また、当地の口碑には義経伝説がありこの中に金売り吉次の兄弟とされる田老乙部地区の吉内屋敷の話しがある。吉内屋敷は火事や離散等ですでに衰退しており、吉内の家が乙部地区のどの辺りにあったかは不明だ。ただ昭和32年に刊行された『源義経は生きていた』の著者・佐々木勝三は同屋敷を訪ね取材しておりその詳細を記している。それによると屋敷は田老鉱山入口を過ぎた新田平の高台にあり、太平洋を一望し閉伊崎、鯨山、船越方面まで見渡せるとある。事実であれば義経北行伝説の真意はともかく、鎌倉時代末期に乙部に某かの豪族が存在したことになる。

 さて、そんな歴史ミステリーに接しながら日枝神社の石碑を見て行こう。まず、最初の写真は蓮のつぼみを持って半跏する仏を彫った石仏だ。この仏に年代等は見あたらず本殿に向かう形で置かれている。すぐ横に墓碑に似た石柱がありその四面に願・安政三年(1856)乙丑□月吉日、宮□、山根傳助、□□□之助などの文字がある。台座もなく年代不明だが仏の表情は上品で小さいながらも造りは緻密でかなり腕のある石工の作品と思われる。

 次の写真は本殿左脇にある半月型の手水鉢だ。前面に大正三年(1914)奉納、□□町、上川九政、旧五月十五日とある。その次の写真も手水鉢だが、こちらは石ではなくセメントに紺と水色のタイルで化粧されている。前面に奉納、裏面に左官、若狭次夫、昭和四十年五月とある。台座に二本のヒビが入っているが修理されており昭和色豊かな作品だ。

 最後の写真は狛犬だ。写真は阿吽で言う「阿型」で、奉納当初は腔内が赤く塗られていた痕跡が残っている。台座前面に奉納、裏面に八戸市大工町、石工・上口安太郎造納、昭和十六年十月吉日とある。

 日枝神社の縁日は五月の連休だ。かつてはこの高い神社から神輿を下ろし曳き船に載せて海上御渡の儀式も行われたという。震災直後は津波で神社の別当も犠牲となっており祭は中止となったが、昨年はささやかながら祭が挙行されたという。

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